+Have you never seen God? +
「うわー御丁寧なことで。」
「アフターケアも万全ってトコですねえ。」
八戒の言葉に悟浄はつついていた格子戸にがっくりと崩れ落ち、慌ててそこから身体を引き剥がす。八戒を恨めしげに見遣るが、自分の不注意でしょうとあっさり返された。
「……だーめー、取れないィー」
悟空は、ばたんと床に身を投げ出した。悟空が力技で外そうとしていたもの、それは左手にある光沢を放つ金属のバングルである。悟空の力を持ってしてもびくともしない。そして、八戒の手にも悟浄の手にも同じものがあった。
うーとひとしきり唸り声を上げて、悟空は上げた足を振り下ろした勢いで起き上がると格子戸をがっちり掴んだ。
「ん、ぎーッ」
見た目はごく普通の、木で作られた格子戸だ。しかし悟空がいくら力を込めてもこちらもびくともしない。当然、開きもしない。
「こっちもだめー」
ぜえぜえと息を荒げ悟空はまた大の字になってしまった。
「悟空、触れるだけでも力を取られるみたいですから、よした方がいいですよ。」
親切に言う八戒の横で、悟浄はハンと鼻で笑った。
「だから無理だって言ってんだろーがよ。」
左手のバングルを格子戸にかつんとぶつけて見せた。
「この妙な腕輪と格子戸、なんかおんなじよーなもんで出来てんだろ、多分。しかしなんだってこんな事が出来んだぁ?」
バングルを見つめていた八戒が、推測ですが、と前置いて答える。
「妖力制御装置と同じようなものなんじゃないでしょうか。僕が身に付けているのは例えば、外見や意識を保てる程度に妖力を抑えているだけですが、これはもっとそれを強力にしたような……」
「さしずめ妖力無効化装置ってトコか。」
悟浄が舌打ちして言葉を継いだ。そうですね、と頷いて八戒をふ、と渋面を作る。
「どうかしたか?」
「いえ……。このバングルやそっちの戸がその手のものだとすれば、納得はいくんですけど。どうしてこんなものが、こんな小さな辺境の村にあるのか、何故僕たちが妖怪だと分かったのか、とかいろいろ引っかかりまして。」
「分っかんねえよ。」
悟浄はお手上げというように肩をすくめる。
三人は腕のバングルによって完全に妖力を封じられ、更に格子戸は触れるだけで妖力を吸い取っているようだった。そういった状況で窓も無い狭い一室に閉じ込められてしまっていた。
そして、姿の見当たらないもう一人は。
悟空は恨めしげに格子戸とバングルを交互に見遣りながら溜息した。
「どーにかして出らんないかなー。出られたらどーにかなるかもしんないしッ」
「無理だろ、どー考えてもよ。」
「あっさり無理とか言うなよ、三蔵心配じゃんッ」
はッ、と吐き出すように悟浄は笑った。
「心配なんていらねえだろ、取り敢えず大事にしてもらってんじゃねえの?何せ、守り神様だしィ?」
白い肌をなぞるように、指を這わす。
からみつく、愛撫。
甘い吐息に答えるでもなく男は口を開く。
「神を求める人の心理というものに興味がありましてね。」
ふっと軽く息を吐き出し、女は男の首を掻き抱くように腕を伸ばす。
重なりあう―二つの身体。
耳元に、かすれる声でささやきかける。
「ふうん?私は興味無いわ。」
男、健一は白いうなじから顔を離し、薄い笑みを浮かべて問う。
「玉面公主様、あなたはそう―人間の信じるような神を信じますか?」
「まさか」
世界の全てを敵にまわし尚それでも勝ち続けるような、挑みかけるような瞳。
彼女はあっさりと言い捨てる。
「そういう意味で言うのなら、この私こそが神になるんですもの?」
笑みを形作った赤い唇が、噛み付くように開かれる。
腕をまわし、身体を、唇を重ね、健一は遠きに思いを馳せる。
(私は、ありますよ。)
……遠い昔に。
けれど。
神は死に、そして自分はここにいるから。
目を閉じ、本能の導くままに身を任せた。
三蔵は賑やかな宴席を険しい目付きで見回す。酌をした女性がどうかされましたか、と思わず恐々尋ねた程だ。
「いや……」
渋面はは崩さず、しかし彼は静かに首を振る。
「何でも無い。」
気乗りしない仕草でゆるゆると杯を口元に運んだ。
昼間見た限りではかなり小規模な村だったように思う。この集会場の広さ、これも頭痛の種なのだが先程からそこらを走り回っている餓鬼どもからしても、殆ど村中の者が集まっているのだろう。もう既に夜中だと思われるが大した宴会だ。そして、この宴会の主賓は他でもない三蔵自身なのだった。渋面も納得のいく状況だ。
しかしこの場に他の三人の面子は無い。
(何処かに閉じ込められたか……。)
三蔵はこれが飲まずにやっていられるかとでも言いたげに杯の残りを一度に呷った。そうした事で頭上にあった忌々しい横断幕が嫌でも目に入ってしまう。そこでまた一層眉間に皺が増えた。
それもその筈、横断幕に並ぶ文字は、
『我が村に生き神様を歓迎する』
というような事を声高に主張していた。それだけならまだいい。
悪いのはこの生き神とやらが三蔵であることだった。
話はこの村に辿り着いた昼過ぎにまで遡る。
地図で見る限りではごく普通の小さな村だった。特にこれといって宗教や何かに傾倒しているという情報も入ってはいなかった。そういった特異な村については近辺までその噂が広がっているものだ。そういう噂を耳にしなかったので三蔵たちはこの村に立ち寄ることに決めたのだった。
今思えば最初から不審だと気付くべきだったのだろう。
「道が狭いことですし、降りますか。」
八戒がそう言い、四人はジープから降りジープは白竜に姿を変え八戒の肩へ。それまでは小さな村にありがちに閑散としていた街路に、一人また一人、と村人が現れた。
「……なんか変じゃねえ?」
悟空は村人の一人に軽く笑顔を向けたのだが、年配の男性は慌てて目を逸らした。しかし、街路に出てきた人々は偶然そこにいるわけではないらしい。明らかにこちらの様子を伺っている。
「確かに妙だな。」
「いつもの、三蔵様〜とも違うっぽいよな?」
悟浄の台詞に三蔵はきっと厳しい表情を向ける。
三蔵が『三蔵』であえることに気付いた人々の畏敬の様子とはまた違う。ただ、何か緊迫していることだけは確かだ。これでは迂闊に動けない。どうしたものかと、困り果てた頃に村の奥の方から、何人かに付き添われた少し身なりのいい中年の男が慌てた様子でやって来た。
男は冷ややかな眼差しを向ける三蔵に構うことなく勢い込んで話し出した。
「あの、あなたは玄奘三蔵様でいらっしゃいますね?」
「いかにもそうだが……」
三蔵の返事を十分に聞くこともしない。
「左様でしたか失礼をしました私はこの村の長、英淋と申します、驚かれたでしょう、滅多に外の人が訪れないので皆驚いているだけなのです。ああ、どうでしょう、よろしければ拙宅で旅の疲れを癒されては……」
一度にまくし立てる男に三蔵は呆れ気味だった。それを見取って八戒が注意を促すようにその肩に触れようとした。
「あの、すみませんがもう少し落ち着いて……え?」
八戒は英淋にかけようとした手を呆然と見詰めた。彼は八戒の手をはたくようにして振り払ったのだ。
一瞬、奇妙な間が生じた。
「あ、あの!」
英淋は取り繕うように八戒に向き直った。
「申し訳ない、人に触れられるのを嫌う性質で……すみません。」
「いえ、お気になさらず。ところで、この村には宿泊施設のようなものはないのでしょうか?もし無いのでしたら……。」
八戒の笑顔に応えるように英淋も笑顔を作った。
「ええ、この通り滅多に旅人も訪れない村ですので、宿などはありませんで。ですから、是非家にいらしてください。」
ちらりと伺うと三蔵も否を唱える様子は無かったので八戒は頷いた。
「では御好意に甘えてお世話になります。」
「それでは案内を……」
男が振り返ると控えていた三人の男が前に進み出てきた。
「なんだよ。」
「オイオイ、どうせならイケてるねーちゃんにエスコートさせろよ。」
男たちは何故か悟空、悟浄、八戒の手を取ろうとする。身を引いたものの訳が分からず態度を決めかねている内にそれぞれ右手を取られてしまった。そこで、八戒がまず気付いた。
「いけません、これは……!ジープ、離れなさい!」
しかし既に遅い。
なんとかジープだけは逃がしたものの、抵抗する間もなく三人の手首には鋭利な輝きを放つ金属のバングルがはめられていた。それを見届けると英淋は後ろに集まっていた村人に合図する様に手を挙げた。
「今だ!」
村人たちは悟空、悟浄、八戒の三人を取り押さえようと一気に動いた。普通ならばそんなことで捕まる筈は無い。しかしこの場合は違った。
「力がはいんねえッ?」
もみくちゃにされながら悟空は何とかそれだけ言う。抵抗するだけ無駄だと判断した八戒が静かに言った。
「おそらくこのバングルのせいでしょう。」
「冗談じゃねえ……ッ」
英淋は三蔵の手を取り人ごみから抜け出す。
「三蔵様、無事ですか?」
「無事?」
三蔵は片眉を上げた。その表情の意味を取り違えたのか、英淋はおいたわしいと首を振る。
「無理もありません、あのような妖怪どもに捕らえられていたのですから……。しかしもう大丈夫です。」
三蔵は一度口を開きかけて思い直す。
(誰かがコイツらに妙な入れ知恵をしてやがるのか……。)
今この場で三人を助けることも不可能ではないだろう。だがそれでは重要な事を見逃す恐れがある。
「それに面倒ってモンだな。」
「何か?」
「いや、すまないと言ったんだ。ヤツらにはほとほと困りきってたんでな。」
あながち演技でもなく三蔵は言う。三蔵の表情が和らいだのを見て英淋もほっと息を吐いた。
「ではどうぞ拙宅でゆっくりなさってください。」
英淋の後に続きながらちらりと悟空たちの方を見遣ると三人も同じ方に連れて行かれているようだった。……待遇はおよそ異なるが。恨めしげな約二名の視線に気付いたが黙殺することにした。
しかしそれにしても一行が村に着いた途端出てきたタイミングといい、いくらこちらが三蔵法師とは言え仏寺でもあるまいしこの扱い。妙なことは上げればきりが無い。
先導する英淋の背に落としていた視線を少し上げて、三蔵は目を瞠った。
「オイ、あれは何事だ?」
三蔵の指す先にはド派手な横断幕があった。そこには、話が前後するが宴席にあった幕と同じ文字が並んでいた。『我が村に生き神様を歓迎する』というような内容だ。生き神様、の辺りが気に障る。何処の村で何をしようが知った事ではないが、この手の宗教的な雰囲気にはどうにも顔をしかめてしまう。性質の悪い祭りだとか、タイミングの悪いところに行き合わせたのではなければいいが。
「ああ、皆で三蔵様、あなたをお待ちしていたのです。」
「そうか。」
くわえていた煙草に火を点けながら何気なく頷いて、それから改めてふと手を止めた。
「……なんだって?」
「ですから、皆で三蔵様を、我が村の守り神様となられるあなたをお待ちしていた、と申し上げたのです。」
三蔵の口元から火の点いたばかりの煙草がぽとりと地面に落ちた。
「……守り神ィ?」
不機嫌を通り越して驚愕のこもった彼にしては珍しい大声は当然、三蔵とは別に引き立てられていく三人の耳にも届いた。
「何がどうなってんだァ?」
こちらは不機嫌以外の何者でもない悟浄に八戒は言う。
「話から察するにあちらの横断幕にある神様というのが―」
「三蔵だっての?」
悟空の言葉に三人は視線を交わして、このようなときにも関わらずふっと笑いを漏らす。
「マジでぇ?」
「まず、三蔵が三蔵である時点である意味信じられませんもんねえ。」
「その上神様ってッ」
両手を縛られ連れて行かれる状況で呑気に笑いあっている三人に村人は不審な目を向ける。元々妖怪だと分かっていることで殆ど危険動物扱いだ。
八戒はバングルを見遣って溜息する。
「取り敢えず三蔵の出方を待つほか無いでしょうねえ。」
「なんか俺、すっげー不安……。」
悟浄の言葉に悟空も天を仰いだ。
「三蔵のことだからそのまま置いてくとか……。」
「絶対ありえない、と言い切れないところが辛いですね。―大丈夫ですよ。」
後半の台詞は一軒の家の軒にとまっていたジープに向けられたものだ。八戒の笑顔に答えるようにしかしジープは物憂げに一声鳴いた。三人は村人に引き立てられるままに地下牢のようなところに連れて行かれ、一方の三蔵は『生き神様』として英淋の家へと連れて行かれたのだった。
そうして今の状況に至るのだった。
「どうしたものかな……。」
三蔵は呟き、再び杯をあおった。
その宴会場の片隅、一人の少女が大皿から少しずついろいろな料理を取り分けていた。一人で食べるには多すぎる量だ。それに気付いた中年の女性が声をかける。
「おや、そんなに慌てなくても料理はたくさんあるよ。」
少女はぎこちなく笑いかける。
「いえ、その下の…人たちにも持って行ってあげようかと思って。」
下、と言う言葉が先日即興でこの村長である英淋の家に作られた地下牢を指していると気付き、女性は表情にかげりを見せた。たしなめようとしたのだろう、口を開きかけるがそれより早く少女が次の句を告いだ。
「分かってるけど、ほら、ちゃんとああいう人たちにも、ね、大丈夫、コレ置いたらすぐに戻ってくるから。」
「ああ、気を付けてね、今は大人しくしてるみたいだけど妖怪、なんだから。」
「心配しないで。」
少女は彼女の主観で十分三人分になる料理を持って宴会場を離れた。
結局、並の三人分では通用しないことに気付くのにそう時間はかからなかった。しかしその間違いこそが、ここで彼女の命運を大きく分けることになるとまでは気付く由も無かった。
「あ、どうもスミマセン、ありがとうございます。」
笑顔で八戒は牢の隙間から少女の差し出した皿を受け取った。彼女が意外な顔をしたのに八戒は微妙に苦笑を漏らした。恐らく妖怪からこのような言葉を聞くとは思いもよらなかったのだろう。
背後ではそんな様子に構うことなく、早速熾烈な争いが繰り広げられていた。
「うめー、これもそっちのもッ」
「あ、テメェー、これだけしかねーんだから少しは遠慮しろよッ」
少女が驚いたように牢の内側を見つめているのに気付き、八戒は内心チャンスだと会話を続けようとする。自分たちの置かれた状況についての情報をつかまないことにはどうしようもない。
「驚かれたでしょう、このヒトたちちょっと食べる量が普通でないものですから。」
耳聡く聞きつけた悟浄が牽制するように悟空の頭をぐっと押さえ込んでから口を出してきた。
「おい、俺までコイツと一緒にするなッつーの!わざわざすまねぇな。あんた、名前は?」
「俺まだ足りねえッ!おかわり無いの?」
「てめぇは図々しいんだよ!あー、八戒まだ何にも食ってないんだぞ?空じゃねえかッ」
「……えーとー……」
悟空も乱入し会話とは呼べない状況になってくる。八戒は心配げに少女を見遣るがその視線を避けるように彼女は踵を返してしまった。八戒はその背を見送り溜息を吐く。
「折角話が聞けそうでしたのに……。」
「だから俺じゃねーだろ俺じゃ!」
八戒の無言の非難を受けて悟浄は再び隣の悟空の頭を押さえ込む。
「だったら俺の所為だってのかよ?そーゆーのセキニンテンカっつーんだぞ?」
「やる気か、コザルちゃ〜ん?」
「もう、止められる人がいないんですから、いい加減にしないと。」
八戒がそう言うと、悟空は不意に厳しい表情を崩した。
「三蔵……大丈夫かなあ……。」
ふと間があって悟浄が再び悟空の頭をぐしゃりとやった。……今度は違う意味で。
「大丈夫に決まってんだろッ!そうシケたツラすんなって。」
「だよな。」
八戒もその光景に自然に笑みを浮かべ、こちんとバングルを打ち合わせて見せた。
「そうですよ。この場合、自分の身を心配する方が先でしょうし。」
「それは言えた……」
悟空も先程どんなに頑張っても外せなかったバングルに視線を落とした。
「彼女から話を聞けなかったのはいたいですね。」
「まあな。」
しかしそこで軽い足音が耳に入る。
「まさか……」
八戒の視線の先に、先刻よりもたくさんの料理皿を盆に載せて抱えた少女が現れた。
「あの……」
「……桂香、よ。」
口ごもる八戒の意図に気付き彼女は短く名乗った。
「ありがとうございます、桂香さん。」
八戒は今度こそ打算の無い笑顔で礼の言葉を口にした。桂香の持ってきた皿にはたっぷり前の倍以上の料理があった。しかしその事よりも、引き返してきてくれたことがうれしかった。
「驚いたわ、とっても怖い妖怪だって、三蔵様を捕らえてる悪いヤツだって聞いてたから……」
その言葉に八戒のみならず既に次の料理に手をつけようとしていた悟空までがその手を止めた。
「はぁ?俺たちが三蔵を捕まえてるって、ナニそれ?」
「……え?」
悟空の反応に桂香もまた驚いているようであった。大体の事情は飲み込めてきた。桂香は先程自分が口にした事をごく当然のことだと信じていたようだ。そして桂香だけでなく村の人全員が。問題はどうしてそのような情報が流れたかということだが……。
八戒はすっと真剣な表情で問い掛けた。
「桂香さん、信じ難いかもしれませんが僕たちはずっと三蔵と一緒に四人である目的の為に旅をしてきました。ですから突然このような事になって大変驚いています。どうか事情を教えてはくださいませんか。」
「三蔵様と一緒に……?」
「そうです。」
八戒は間髪入れずに強く頷いた。この機会を逃すわけにはいかない。
「ホントだぜ。」
悟浄もぽつりと呟くように言った。
「あんたたちに妖怪を信用しろって言っても無理なのは分かる。けどこっから出せって言ってるワケじゃねえ。話すくらいなんてことねぇだろ。」
「それと、三蔵!桂香、三蔵のこと教えてくれよ!心配なんだよ、大丈夫なのか?」
悟空の瞳がまっすぐに桂香に向かう。桂香は料理を載せてきた盆を胸元にぎゅっと押し当てた。揺れる視線はそのまま迷いをあらわしているのだろう。逡巡するのも無理は無い。何しろ相手にしているのは『恐ろしい妖怪』なのだ。八戒も、悟浄も悟空も、固唾を飲んで彼女が口を開くのを待っていた。
「……」
桂香が、何事か言おうとした。三人にはそう感じられその表情に少なからず期待が浮かんだ、そのとき。
「桂香!」
いつの間にやってきたのだろう、桂香のすぐ後ろから英淋が現れた。
「姿が見えないと思ったらこんなところで―」
何を、と問おうとしたのだろうが牢の中の皿と彼女の持つ盆を見ればその答えは明らかだった。英淋は顔をしかめた。
「おまえは……!こんなヤツらに近づくんじゃない、いいな?」
反論しようとした桂香を、英淋はそれを許さないきつい眼差しで見る。
「……はい、分かりました、お父様。」
「それでいい、上に戻るぞ。」
はい、と力無く答えて桂香は英淋に肩を押されるままにその場を去っていった。
不意の訪問者の為に訪れた沈黙を最初に破ったのは悟浄だった。
「あのオヤジにあんなかわいい娘が居るとはねえ。分かんねぇもんだな。」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょう。」
「そうだよ、あとちょっとで何か聞けそうだったのにッ」
「大丈夫だろ。また来てくれるさ。」
八戒がなんですかその自信は、と尋ねる。すると悟浄はにッと笑って見せた。
「この俺にまた会いたくない女がいないワケないっつーの。つーわけで腹ごしらえさせてもらうぜ、俺は。」
料理に手をつける悟浄に、あーそれまだ食ってない!と悟空も加わる。悟浄の言葉の真偽の程は甚だ怪しいものであったが、後半は確かに最優先事項であると思い八戒も食事に専念することにした。
英淋に従って階上に戻った桂香は宴会の行われている部屋の前、丁度扉を出たところの三蔵と行き合わせた。
「あ」
慌てて頭を下げる。三蔵は軽く目を逸らした。そういう態度を取られるのが気に入らないらしい。堂堂巡りではあるだろうが、すみませんと再び頭を下げて足早にその場を立ち去ろうとした。しかしすぐに思い直したような声に呼び止められる。
「オイ……」
その間を敏感に感じて桂香はまた、先程と同じように短く名乗った。
「桂香か、あんたも本当に俺がその生き神だとか何とか思ってるのか?」
思いもよらない質問に桂香は口を閉ざした。それは彼女や他の村人にとってとても当たり前に信じていたことだった。あの日、村に救世主が来るとあのひとは確かに言った。それが三蔵であると。この日にやってくると。そしてその言葉通り、今日三蔵は現れた。それなのに……そんなことを聞かれても困る。
三蔵が軽く溜息を落とすのが分かった。また何か気に触ることをしてしまったらしい。
「答えられないなら構わん。だったら、これなら分かるだろう、何故この村のヤツらは俺が生き神だなんざ思ってるんだ?」
「それは!」
桂香は勢い込んで答えた。
この村がつい最近まで疫病に見舞われ、全滅の危機にまで陥っていたこと。そしてそこに現れた不思議な男。彼は自らを導師と称した。
「そして彼は村の人たちの病気をどんどん治していきました。勿論、間に合わなくて亡くなった人もいます。けれど彼のおかげで村は全滅を免れることが出来ました。この通り小さい村ですから、ちょっとした流行病でも存続の危機になるんです。それで村の人たちはみんな喜んだんですが、彼は言いました。」
村の危機はまだ本当には去ってはいないと。
「今は自分の力で一時的に災厄を抑えているのだと言って。ですからお父様や村の人はどうすれば村が助かるか尋ねました。そうしたら、もうじき村に三蔵様がいらっしゃるから、彼を守り神としてこの村に迎えればよい、と。ですけど、三蔵様は悪い妖怪につかまっているのでお助けしなければならないと言ってそのために力を貸してくださいました。」
(それがあのバングルや何かか。他にも何かある可能性はあるが……。)
三蔵は忌々しげに舌打ちする。
「あ、あの!」
「何だ?」
苛立たしく答える三蔵に、桂香は一瞬言葉に詰まったが、一度首を振って決心したように尋ねる。
「三蔵様はこの村に居てくださるんですよね?」
「どうだかな。」
その言葉の温度から、それが決して冗談などではないことを桂香は知る。考えても見なかった返事だ。
「そんな……」
三蔵はふと背後を振り仰いだ。桂香のすがるような瞳は自分ではなく、それよりも後ろに向けられていたからだった。廊下の一角、丁度入り口のドアの正面にあたる場所、小さな鏡がかけられていた。房飾りのついた、装飾品のようだ。
(なんだ?)
目を向けると同時に、嫌な感触がした。しかし目を逸らしたところで再び、桂香と目が合う。舌打ちすると三蔵は外へと向かって歩き出した。あの、としかしそのまま言葉を失う桂香に三蔵は返す。
「風に当たってくるだけだ。」
嫌な、気持ちだ。
お門違いの期待をかけられること。そんなことをごく当たり前に信じている者の視線。
不愉快なことばかりだ。
「本当にこのまま置いてくか。」
一瞬不穏な言葉を呟いて三蔵は煙草をくわえ、冷たい風の吹く戸外へと踏み出したのだった。
桂香はその後姿を見送り、一度目蓋をぎゅっと閉じてまた開いた。そうしないと思わず涙が零れそうだったからだ。
ずっと、信じていた、のに。
けれど、彼はとても正しい目をしている、そうも思った。
何が、いけないのだろう。
三蔵の出て行った、開けたままのドアからキューイ、という悲しげな何かの生き物の鳴き声が聞こえた。
「フン、似合いだな。」
「あーあーあー!三蔵!!」
「何が似合いだ何がッ!!」
「遅いですよ、三蔵。」
牢の前に現れた三蔵の言葉に、悟空は早くも八戒の忠告を忘れ格子にしがみつくようにして叫んだ。流石に悟浄は同じに格子に手を伸ばしかけて引っ込め、わめくだけに留めた。八戒もげんなりと溜息交じりの台詞だ。
「で、どうでした?」
「村人に入れ知恵したヤツがいる。導師とか名乗って流行り病を治した上で俺のことを預言していったらしい。守り神だとかなんとかな。」
三蔵は不機嫌そのものの顔で桂香に聞いた経緯を簡単に説明した。八戒は考え込むように言う。
「明らかに僕たちを足止めしようとする者の仕業ですね。」
「また紅孩児か?」
何故かうれしそうに悟空が言うが、すぐに八戒が否定した。
「いえ、これは彼のやり方ではないでしょう。」
「今までは直接命を狙ってきたからな。本人も、刺客も。」
「いきなり路線変更した……ってこともねぇよなァ。」
悟浄は顔をしかめた。
「足止めとかどうとか言うより、嫌がらせっぽいよな。単に。現にこうして三蔵はここに来てるワケだし、簡単に抜けられるだろ。生き神様だのなんだの俺、なんかすんげぇ不愉快なんだけど。」
「てめぇと同意見なんざ、余計に不愉快だな。」
悟浄が口を開きかける。剣呑な雰囲気に拍車がかかることは火を見るより明らかだ。それより早く八戒が言葉を発した。
「三蔵、どうします?」
八戒はこのままここに残って様子を見る、つまり元凶を確かめるのか、或いはと尋ねていた。三蔵はぴっと煙草を地面に落とすとあっさり答えた。
「さっさとずらかるぞ。」
「そう言うと思いました。三蔵ならこの格子戸くらい壊せるでしょう。」
特殊な力の篭った格子戸に触れないよう、八戒は慎重に指し示す。鍵はかかったままだが三蔵程も力があれば問題なく壊せる筈だ。
「それもそのバングルと同じようなモンか……手間のかかる……」
蹴破ろうとしたのか拳を振るおうとしたのかは定かではないが、三蔵が気の進まない様子で一歩下がった。
そのとき。
「そこまでです!」
英淋がいた。いや、英淋だけではない。多くの村人が必死の形相でその背後に居た。手に手に棒や或いは台所道具を持っている。恐らくは武器のつもりだろう。しかしそれはさして問題ではない。問題は……。
「三蔵様ともあろう方が妖怪に肩入れなさるとは……嘆かわしい。すぐにそこからお離れください。」
そういう英淋の手には、小型の銃が握られていた。銃口は三蔵にぴたりと合わさっている。
「あんなものまで渡してやがったか。」
「どうやら、その導師とやらは余程僕たちのことに精通しているようですね。……三蔵。」
「なんだ?」
八戒の視線を追って、三蔵はある一点にやはり視線を向かわせ、また八戒に視線を戻した。八戒が頷くのを見て投げやりな素振りでぱたりと両手を挙げた。
「あんたたちの勝ちのようだな。で、どうすりゃいいんだ?」
「私たちと一緒に上へお戻りください。」
「選択の余地は無し、か。」
ゆっくりと三蔵は歩を進める。三蔵を先に歩かせながら村人たちもまた牢を離れ地上へと戻っていった。
「三蔵!」
息を詰めていた悟空がまた格子にすがりつこうとする。悟浄が慌ててその襟首を捕まえた。
「てめぇ、少しは学習しろよ!」
「でも三蔵が!」
「だからサイアク殺されたりとかはしねぇよ、カミサマなんだからよ。」
そっか、とうなだれた様子で悟空は力を抜いた。八戒がしかし、と言う。
「そのカミサマに銃を向けるとは意外に皆さん、大胆でしたね。」
「ま、村の為なら手段はえらばねえってとこだろうよ。……そうだろう?」
悟浄は牢の向こう、階段に続く廊下がカーブになったその陰に向けて言った。小さく息を呑む気配がした。八戒も軽く笑顔を作った。
「どうしましたか、桂香さん。何故そこに居るんです?大丈夫ですよ、出てきても。どうせ僕たちここから出られませんから。」
躊躇っているのだろう、僅かな間があっておずおずと桂香が現れた。
ぺたり、と牢の前の床にそのまま座り込む。
「ねえ」
「なんでしょう。」
唐突な呼びかけにも八戒は自然に先を促した。
「三蔵様は、ここに残るのがイヤなの?」
「そうですねえ……まあ、そういうことでしょうねえ。」
一瞬違うことを言おうとしたが、それは彼女の求める答えではないと判断して八戒はただ簡単に答えた。そう、と桂香は頷いて俯いたが、すぐに顔を上げた。
「だったら、私たちは、ずっと信じて待ってた私は、どうすればいいの?ねえッ」
「桂香さん……。」
涙さえ浮かべていそうな、必死の目に捉えられて、八戒は言葉を失う。なんとか、答えようとする。
「誰も、誰かを縛ることなんて出来ないんです。三蔵がここに居たくないと言ったら、それは誰にも」
「母が死んだのよ!」
八戒の言葉を遮って、桂香はかみつくように言う。悟浄も悟空も、口出しの出来ない勢いがあった。三蔵が本当に何の力も無いただの人間であって、神で無いことなどいくら説いても無駄だろう。そんなことは彼女にとって村人にとって、なんの問題でもないのだ。
彼女は、彼らは、信じている。
「流行り病でね。けれどまだ私には小さい弟が居るわ。あの子だけは絶対死なせない……!その為だったら、ひとの一人くらいどうにかしてみせるわ!」
八戒は思わず息を呑んだ。
(知っている。)
モラルも、理性さえも簡単に超えてしまうこの感情を。
桂香の言うことが、どれだけ歪んだ思想か、それを分かっていても。
けれど、自分は知ってしまっているのだ。
何を犠牲にしても守りたいという気持ち。
その絶対の感情の前に、人の命さえ軽く消し去ってしまえた過去がある。
(今思えば。)
身代わりに姉を差し出した村人たちもまた、そうだったのだ。
誰も、何も責められない。
その気持ちを知ってしまったから。
八戒の沈思を破るように格子戸ががしゃり、と鳴った。
「でも!」
「悟空」
しかし今度は止めようとする八戒の手も悟空は振り払った。
「けど、俺はそんなの嫌だよ。誰かを不幸にして、それでしか自分が幸せになれないなんて!」
力を吸収されるのにも構わず悟空は格子戸を掴む。しかし桂香はいやいやをするように激しく首を振る。
「そんなのキレイごとよ!あなたたちは、自分が強いからそんな事言えるんだわッ」
「違うよ、俺たちだって強くなんて無いよ!だって……ッ」
言葉に詰まる悟空の肩を悟浄が軽く掴み、格子戸から引き離してやった。
「なあ、確かにあんたの言うことも分かる。誰でも幸せにはなりてぇよ。守りたいものもあるよ。それにどんなやり方したって、悪くはないさ。けど、あんたはそんなので本当に幸せになれるヤツじゃねぇだろ?」
悟浄は諭すように続ける。
「だから、こんなのはおかしいと思ったから、こうやって俺たちの話を聞きに来たんじゃねぇのか?」
桂香は俯き強く握り締めた自らの手に視線を落としていた。
村人たちに背中から威される形で、三蔵は外にまで来ていた。背後の足音が止まるのを感じて三蔵もまた歩を止め振り返ると、開いたままの英淋の家の扉から、あの嫌な感じのする鏡が小さく見えていた。
「三蔵様、どうぞこの村にお留まりください。……守り神として。」
「俺があんたたちのためにそんなことしてやる義理は無い。」
三蔵は自分に向けられた銃口をものともせず冷たく言い放つ。英淋以外の村人からざわめきが起こったが、彼が背後に向かって片手を上げるとぴたりと止んだ。異常な程の統制だ。
「娘の、桂香からお聞きでしょう。私たちにはあなたが必要なのです。」
英淋はゆっくりと言う。
「これだけお願いしても、無理ですか。」
「大層なお願いの仕方もあったもんだな。」
三蔵の返事は変わらない。はっきりごめんこうむると、告げる。
「そうですか……ならば、仕方がありません。三蔵様には本当に神になっていただくまでです。」
英淋はがちり、と撃鉄を起こした。神になっていただく、その言葉の真意を理解して三蔵は舌打ちした。ここまでやる気だとは思ってもいなかった。いくら相手は素人とは言え、あとは引鉄を引くだけだ。間に合わない。
緊迫した時が流れた。
三蔵は英淋が一撃目を外すことだけを願った。他に手は無い。
しかし。
「キュー!」
「うわ、何だコレは!」
バサリ、とジープが英淋の顔におおいかぶさった。気付いた周りの村人によってすぐにジープは引き剥がされる。しかし三蔵に銃を抜く間を与えるには十分だった。慌てて銃を構えなおす英淋だったが、三蔵の手にも銃があるのを見て取り苦い顔をした。そして。
「三蔵様!この通り、私たちはあなたとは違い無力な普通の人間です。その私たちが、村を守り……いえ、幸せになるにはこうでもするしかないのです!神の手を借りるしか!分かっていただけないのですか!」
命を脅かされてさえ、態度を変える気は無いらしい。三蔵は軽く息を落とした。
「なるほどな、確かにそうだ。てめぇらがどうやって幸せになろうがそれはてめぇらの勝手だろうよ。だが、俺たちにも俺たちのやり方を守る権利はあるって事だ。」
英淋の瞳が揺れた。彼にとって神である三蔵というものが、自分たちと同じように人間として当たり前に自らの意思で動こうとすることなど考えもしなかったのだろう。
三蔵はまっすぐに銃を上げる。
「前に二度と言わんと言ったんだがな。」
軽く顔をしかめて続けた。
「俺が師の光明三蔵から教わったのはたった一つだ。……無一物。祖に会えば祖を殺せ、仏に会えば仏を殺せ。だから俺は俺の行く手を阻む全てのものを殺し続ける。信じるのは、己のみだ。てめぇらは勝手に神でも何でも拝んで幸せになってろ、ただし俺は俺の道を行く。」
銃口はピタリと英淋を捉えた。
しかしまた、英淋の銃口も三蔵を捉えている。
「三蔵!」
膠着を破ったのは英淋の家から出てきた悟空の声だった。桂香は、彼らをその手で解放したのだ。声に気を取られ、英淋の視線が自分から外れる。三蔵はその隙を見逃さなかった。
迷わず、引鉄を引く。
ーガゥン
「うわァッ」
しかしその銃弾は。
いきなり飛んでくる銃弾に悟空も悟浄も八戒も慌てて頭を低くした。背後で何かの壊れる高い音がした。
「てめぇ、いきなりゴアイサツだなオイ!」
「ひでぇよ、三蔵!俺まだなんもしてねぇのにッ」
背後に視線を走らせた八戒が今にも三蔵に向かって走り出しそうな二人を止めた。
「いえ、違います、違いますよ二人とも。……これを。」
振り返った三人の前に、粉々になった鏡の砕片が散らばっていた。桂香が導師と名乗る男が置いていったものだと説明したものだった。それは三人の見る前で、一瞬、自然には有り得ない妖しい色に光って、また普通の鏡の欠片に戻った。
「チッ、紛らわしいやり方するぜ……!」
「なんかよく分かんねえけどこれが悪いのか?……でも俺たちが避けられなかったらどうする気だったんだろう、三蔵。」
八戒は乾いた笑いを立てた。
「それは考えない方が賢明でしょう。」
「オイ、てめぇらさっさと来ないと置いてくぞ。」
三蔵が村人たちの向こうから言ったかと思うと、既に背を向けている。その周囲をこちらを気遣うように行きつ戻りつ弧を描きながらジープがひらひらと飛んでいる。その姿に軽く光が射している。夜が明けてきているのだ。
村人たちはそれを追う事もせずぼんやりと立ち尽くしている。
悟空たちにもその訳が分かった。妖しく光ったあの鏡、あれが村人たちに催眠効果をもたらしていたのだろう。その呪縛が解け、咄嗟に自我を取り戻せないでいるのだ。
悟空はその様子が気になり、少し進んで振り返ろうとしたが八戒に行きますよ、と背中を押された。見上げると、八戒は軽く首を振るだけだ。
「うん……分かった!」
悟空は駆け出すとすぐに先を行く三蔵に追いつき、そのままタックルするように腰に手を回して身体ごとぶつかった。
「何しやがるんだサル!」
すぐにいつものハリセンが飛ぶが、今はそれに非難を返したりはしない。
「へへ、三蔵無事でよかったー」
「手間かけさせたのはてめぇらの方なんだよ。」
三蔵は視線を逸らし、フンと短く吐き捨てるのだった。
「この人の蘇生のこと、どうなの?ちゃんと進んでいるのかしら?」
「ええ、御心配なく。」
一度軽く視線を下げて答えた後、正面の女性を改めて見る。
「そう……」
軽く目を伏せると、長い睫毛がその表情を曖昧なものにする。彼女―玉面公主は継ぎ目の無い透明な、そして巨大な棺に手を当て、体重の半分を預けるようにしてうっとりと恍惚の表情でその中を見上げた。禁断の術を以て復活させられようとしている、怪物。今はまだ深い眠りについている。
「いとしいひと……フフ、もうすぐよ―。」
平気で、嘘を口にする。その潔いとも言える姿勢。
欲望に光る瞳は確かに醜悪でもあったが、それ故にいっそうつくしくさえあった。
「では、また参ります。」
何の為に、とは告げず健一は踵を返す。それを玉面公主のこちらも意図のつかめない声音が見送った。
「ええ、待ってるわ。」
長く冷たい廊下を歩む健一は、ぴたりと足を止める。白衣のポケットから取り出した小さな鏡に、今しがた入ったかのような新しいひびを見つける。それにふと顔をしかめたが、またポケットに戻し歩き出す。鏡のひびは、彼のちょっとしたいたずらが失敗したことを告げていた。
「ま、失敗とは限らないか……。」
マジック手品の仕掛けが見破られたに過ぎない。嫌がらせ程度の効果はあっただろう。
(あなたは、神を信じますか。)
ひとは簡単に信じる。ちょっとしたきっかけ奇跡があれば尚だ。いつも、ここに立っているその訳を、世界の動き続ける訳を、求め苛まれるからだ。全てを簡単に納得させる絶対者が存在すれば、楽になれる。求めるところに求めるものを放り込んでやれば、簡単に信じるのは当たり前だ。
「だから、騙される。」
それならば、信じられるのは自分だけだ。
それでも神を求める人々は決して絶えない。
健一は片手にしたうさぎのぬいぐるみの、赤い瞳を見つめる。
「だからひとは愚かなのさ、そうだろう?」
夜が明けたばかりの幾分冷たい空気の中を、ジープはいつもよりやや静かに走り続けていた。周囲は荒涼とした岩肌の続く単調な景色だ。静かなのは結局一睡も出来なかった為に悟空が真先に眠ってしまったからである。
「結局誰だか知らねぇヤツが俺らの邪魔をするために御丁寧な演出付きで暗示をかけてったってことか。」
意外に几帳面なのだろう、なし崩しに村を出てきたまま何の説明も無い中、悟浄が自分なりに事態をまとめてそう言った。
「そうでしょうね。……何処までが暗示かは微妙ですが。」
「なんだって?」
ハンドルを握り前方を見たままの八戒の言葉に悟浄は短く反問する。それに面倒臭げにしかし答えたのは三蔵だった。
「最初にあの鏡を見たとき確かに嫌な感じはしたが、そこまで強い力があるようには思わなかった。もともとろくなヤツらじゃねえ。」
「まあ……そうかもな……。」
先刻、村の小路を抜けたところで三蔵たちがジープに乗り込もうとしていると慌てた様子で英淋が走って来た。三蔵たちは一瞬身構えたが彼は今まで失礼なことをした、と頭を下げたのである。しかし次の言葉に三蔵は再び態度を硬くした。
「三蔵様は使命を持って西に行かれるのですね。そのような方を我が方へお引きとめしようとは浅はかでした……使命をお果たしになり、より多くの人々が救われるようお祈り申しております。」
その、救われるより多くの人々には当然自分たちも入っているのだろう。
何も、何も分かってはいない。
三蔵は何も答えず、八戒に車を出すよう告げた。
彼らは永遠に自分たちの手で切り拓く道のことなど考えもしないのかもしれない。
悟浄はけどよ、と口を開いた。
「桂香ぐらいは分かってくれたんじゃねぇの?」
「そうだといいですねえ。」
「ま、俺の知ったこっちゃねえがな。」
三蔵はただそう言った。
その姿をリアシートから眺めながら、悟浄はふと笑いがこみ上げてきた。
「なんだ。」
「いや、いくら暗示があったとは言え、よくこんなヤツ、カミサマだなんて信じられたよなあ。どう見ても無理ありすぎだろ。」
「どういう意味だ。」
「こんな暴力タレ目」
悟浄の言葉は不自然に途切れる。走行中だというのにシートに足をかけ立ち上がった上で振り向いた三蔵の銃がきっちり悟浄を射程に捉えていたからだ。
「今の俺はちょ―機嫌が良くねぇんだ。引鉄も軽いぜ?」
変わらぬ笑顔でハンドルを握る八戒がぼそりと呟いた。
「神罰が下りますよー、なんてね?」
―ガゥン
そこで銃口が火を噴いた。
「―ッ、何で俺よ?」
「元はと言えばてめぇだろうがッ」
「言いがかりだーっ」
騒ぐ悟浄の隣でむ?と悟空が目をこすり、ゆっくりと目蓋を上げる。
「何怒ってンの三蔵?駄目じゃーん、何せカミサマだし。」
「馬鹿―ッ」
悟浄が悟空の頭を押さえ込むがもう遅い。
「てめぇらまとめて死ね」
むしろ静かに言ったかと思うと、銃声が二度続けて響いた。
「避けてんじゃねえッ」
「避けるッ、フツー避ける三蔵ッ」
「うるせえッ」
「ぎゃああああああああああああ」
ひとしきり騒いだ挙句、遂に三蔵がどさり、とシートに身を沈めた。
「……ッたく」
「お疲れ様です。」
しれっと八戒は笑顔を向ける。
「てめぇ」
よく言う、とでも続けようとしたのだろうがそれより早く口調を改めた八戒が言った。
「あの人たちには信じる為のものが必要だったんでしょうね。それが何でも。」
フン、と三蔵は短く吐き出した。
「誰が何を信じようが、そりゃそいつの勝手だがな。裏切られる覚悟も要るってことだろう。」
八戒は遠くハンドルの先の地平を見遣る。
「だから自分を信じる、ですか……。」
自分の心だけは裏切らない、それが誇り。
けれどそれは。
―自分を信じられる強さ。
―自分しか信じられない弱さ。
諸刃の剣のようなものではないか。その危うい境地で、誰もがジレンマから逃れられずにいる。恐らく、誰もが……。
ちらりと三蔵に向けた視線はしかし、困ったような笑顔に変わった。
「……なんだかゆっくり出来る雰囲気でもないですね。」
三蔵はコイツらは……と額を抑える。
「てめぇが大人しく寝とけばよかったんだよッ」
「責任転嫁すんなよ!」
「つーか寝ろ、今すぐ寝ちまえ」
「イデデデデデ、無理矢理寝られるワケねーだろ?」
「冗談だろ、それ、普段はのび太並みじゃねぇかよ」
「のび太はヒデーよ、のび太は!」
「あー……のび太に失礼だったな、ヤツは三秒だもんな、てめぇは言わば瞬眠だもんな。」
「この」
―チャキ
不吉な音に二人はピタリと動きを止めた。見合わせた視線をそろり前方へと移すと……。
「二人で一生寝てろ」
再び立ち上がった三蔵が銃を構えている。
「死ぬッ、三蔵それは死ぬッ」
「だから殺すつってんだろうが!」
銃声と悲鳴が交錯する中、八戒は涼しげに笑う。
「皆さん、大人しく乗ってないと危ないですよ?」
しかしそれくらいで静かになるくらいなら元々こんな騒ぎになる筈も無い。そんな調子でとにもかくにも賑やかに西への旅は続いていくのだった。
2001年11月頃に書いたものです。(また発掘か……。)
RED ZONE様発行「最遊記アンソロジー jealousy」に掲載して頂きました。今ではもう入手できないでしょうから、そろそろいいかなと思ってアップ。もう五年半くらい前になるのかあ〜。
お話のスケール感もちょうど漫画で数回分くらいって雰囲気だし、軽い掛け合いのテンポもまあまあいい感じだし、それなりに自分の考えみたいなのも折り込めたし(原作の尊敬する部分へのオマージュやら愛故に疑問に思う部分への問題提起とかも出来たし)、今見ても割と気に入っているものです。
(2007/04/16)
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