遠くで鐘が鳴っている。
懐かしい、馴染みのある音だ。
そう認識して、男は立ち上がろうとする。ここを発って急が無ければ、漠然とそうした思いだけがあった。しかし男は深刻な眩暈を覚えてベンチへと引き戻される。風雨に晒されザラザラになった板の感触が手に伝わってきた。
そう、男はベンチに座っていた。
だが、男には何故自分がここに座っていたのか、さて、定かでは無い。
広場か、大きな通りか。
その白く塗られたベンチは良く平らに均された地面の上にあった。だが、誰もいない。何も無い。空もまた、晴れているのか、曇っているのか、それさえはっきりとはしない。全てが不確かで、まるで水中の景色のように遠い。ただ、その灰色でなだらかな地面の先、微かに緑の木立と白く尖った建物の先端が覗いていた。鐘の音はそこから聞こえてくる。
―カーンカーンカーン
教会だ、と男は思う。
行かなければ。行かなければ。
(あそこへ?)
違う。ならば何処へだろう。
―カーンカーンカーン
鐘はまだ鳴り止まないでいる。
風に乗って、微かに子供たちの声も聞こえてきた。
「何をそんなに急いでいるの?」
すぐ傍で、女の声がした。男はしかし驚きはしなかった。
そう言えば、ずっと隣に誰かが座っていたような気もする。男は女の方は見ず、鐘の音のする方だけを見ていた。
「いえ、僕は、急いで行かなくちゃいけないんです。」
「何処へ?どうして?」
女は少し笑っているようだった。
「それが、分からないんです。でも行かなくては。」
「面白い人ね。それなら、少し落ち着いて思い出せばいいわ。そうでしょう。」
女にそう言われて、男は少し身体が軽くなった気がした。息を吐いて、それまで落ち着かなさげに浮かしていた背をベンチに預ける。また少し身体が軽くなった気がした。
「そうですね。分からないのなら、何処へも行けませんものね。」
男は、ふと、女を見ようと首を廻らせた。
「あなたは?」
尋ねるが、まるで、ピントの合わないカメラ越しに見るかのように、女の輪郭ははっきりとしない。もやもやが消えない。男は何度か意識的に瞬きしたが、やはり何も変わりは無かった。しかし女が微笑んだのは何故か分かった。
「私は、―よ。」
肝心の部分が、聞こえない。
「なんですって?もう一度、おっしゃって頂けませんか。」
「そう、あなたには聞こえないのね。ならば、
、と呼ぶといいわ。」
「
」
男は繰り返した。今度はしっかりと聞こえた。
すると、どうだろう。急に、女の姿がはっきりと目に映った。そして男は、ああ、と頷く。
「どうして僕はあなたに名前を尋ねたりしたんでしょうね。僕が、
を忘れる筈がありません。」
は何も言わず微笑んだ。幾ばくか見詰め合って、彼女の方が口を開いた。
「それで、あなたは?」
「僕?」
男もまた笑う。
「何故、
がそんなことを聞くんです?僕は、悟能ですよ。何故、そんなことを?」
聞いてみただけよ、と、また
は笑った。そして、問う。
「本当に?本当に、あなた、悟能なの?」
悟能は、困ったように答えるしか無い。
「ええ、そうですよ。どうしていじわるなことを言うんだい、
?」
「いえ、そういうわけではないの、そう、あなたがそれでいいなら、いいのよ。」
―カーンカーンカ−ン
鐘は、まだしつこく鳴り続けている。遠く、微かにだが、確かに悟能の耳を打ち続けている。
もまた、教会の方へと視線を送っていた。自然と、悟能もまたそちらを見遣る。
「まだ、鐘が鳴っていますね。」
「―鐘?そう、あなたには、そう聞こえるのね。」
「……また笑うんですね、。」
悟能は眉を寄せながらも一緒になって笑った。そうしている間にも鐘は鳴り止まず、規則的なリズムを刻んでいる。まるで、呼びかけているかのようだ。
悟能は、ふと、興味を覚えて問うた。
「では、あなたにはどう聞こえると?」
は、さあ、と曖昧に返しただけだった。
「それで、思い出した?」
「え?」
悟能は、一瞬、何を聞かれているのかと考える。それで、少し間を置いて思い出した。自分は一体何処へ行こうと言うのか―だが答えはまだ分からない。
「いえ、いえ、まだ―でも、ここでこうしているのもいいかと思えてきて。」
「そう……」
は少し俯いた。その表情に翳りを認めて悟能は何故、と問う。
「どうして、そんな顔を?僕は、あなたといるととても落ち着きます。だから、ここにいてもいいんじゃないかと」
悟能の問いに、はただ寂しげに首を振るばかりだ。男にはそれが何故なのか、本当に分からない。
「違うわ、違うの……考えて。あなたが、本当は誰なのか、何処へ行くのか。」
そうだ、行かなければ。
再び、目覚めたときの衝動が悟能の胸に蘇る。何処かへ行かなければならないと言う、それだけの衝動、けれど、それが何処なのかどうしても分からない。いや、自分は本当に悟能なのか?誰なのか?
「僕は」
―カーンカーンカーン
鐘が、煩い。
鐘?本当にそれは鐘だったのか?自分は、誰なのか?
男の頭の中を、膨大な記憶と思考が嵐のように渦巻く。
―……かい、っかい、はっかい
「猪八戒。」
男は、八戒は、呟いた。とうに捨てた過去の名に縛られているときではない。
「そうだ、僕は、猪八戒です。……悟能じゃ、無い。」
は、今度はやわらかく微笑んだ。心からの笑みだった。
「よかった。ならば、呼ぶ声が聞こえるわね。」
―八戒、八戒!
八戒にも、何処かから彼を呼んでいる声が聞こえていた。
もう、鐘の音は聞こえない。いつの間にか教会と緑の木立も消えて、ただ灰色の空間だけが視界を覆っていた。前後も、左右も、上下の感覚すらも無い、世界。
夢なのだ、と八戒は気付く。それと同時に、はっとして を見た。
「では、あなたは……」
「分かるでしょう、あなたは、呼ぶ方へ、行かないと。」
「でも、それじゃ は!」
微笑む彼女の輪郭は既に最初のときのようにぼやけている。夢から覚めようとしているのだ。嫌だ、失いたくない。夢である筈が無い、確かな絆を感じるのに。
そんな八戒の思いを察しているのか、 はただ微笑む。
「大丈夫よ」
その言葉の、
「私は、いるから」
ひとつひとつが、
「ここではないけれど今ではないけれど」
脳裏に刻み込まれていく気がした。
「ちゃんといるわ。」
八戒はもう頷く事も言葉を返すことも出来ない程肉体の感覚を失っていた。夢から覚め行く間際、映画のフィルムを眺めるような曖昧な感覚しかなかった。それが口惜しかった。
「……また、会いましょう。」
それが、最後になった。
「八戒!八戒ってば!……あ、目ぇ開けた!生きてる生きてる!」
「バッカ、最初から死んでねえよ!」
「コイツが馬鹿なのは今に始まったことじゃねえ。」
「何気に悪口言ってんなよ三蔵!」
「悪口?事実だろ。」
「でも三蔵、事実だからこそ本人には言わない方がいいってこともあるワケだし。」
「そうか、それは配慮が足らなかったな。」
「……なんか更にバカにされてる気がすんだけど。
見上げる視点から、不満そうな声を漏らす悟空の後ろ頭が目に入った。なので、呼び掛ける。
「悟空?」
「あーそう八戒!どっか、なんかヘンだったりしないか?」
そう言われて八戒は自分が横たわっている事に気付く。と言うより、不覚にも意識を失っていたに違いない。特に今の段階で何らかの不調は感じられなかったので、取り敢えずよっこらしょ、と上体を起こした。
「この通り、大丈夫みたいです。ご迷惑をお掛けしたようですね。」
「ゴメーワクとかじゃないけど、いきなりブッ倒れるからびっくりしたよもー」
「てゆーかよっこらしょはヤメとよオメー!」
ババクセーからと続けながら、悟浄は屈んでばしっと八戒の背中を叩く。軽くしかめっ面をしておいてから尋ねる。
「敢えてババクサイですか。」
「そうそう、ジジムセーってよりババクセーなの、よっこらしょは。」
「え?じゃあジジムセーはどうなんだよ?」
問う悟空に悟浄は人差し指を立てた。
「ジジムセーってのはな」
「おう」
「ぃよっこらしょーっとくらあ」
一声かけると中腰の姿勢から勢い良くがばっと立ち上がる。語尾がポイントなワケですね、と呟くと八戒も立ち上がった。地面に敷いていた防水シートも一緒に引っ張り上げる。
「最初の『ぃ』もだ『ぃ』も!」
「ハイハイ」
「さっさとしねーと置いてくぞ、サル。」
暇潰しに吸っていたのだろう、三蔵がまだ十分残った煙草を指で弾いて地面に落とす。悟空は待てよと叫ぶと立ち上がった。
「なんかおかしくないかこの流れー?」
八戒はジープの後部にくるくるとまるめた防水シートをしまいこんでいる。
「本当に大丈夫?」
「ええ、問題無いですよ。別に、誰かにやられて倒れた訳では無いでしょう?」
「うん」
八戒も既に前後の大体の事情は把握していた。いつもの団体様―大量の刺客―を相手していたのは覚えている。粗方片付いたところで三蔵と一言二言交わした―その後からの記憶が怪しい。別段、体調に不具合があったわけでも負傷した訳でも無かったのだが。
そして気が付けば次は悟空の後ろ頭、と言う事になる。
「ナニー?長旅の疲れでも出た?」
ドアを開けると言う面倒なプロセスを省いて後部シートのいつもの位置に悟浄が収まる。八戒は軽く笑って見せた。
「そうですね、気苦労が絶えませんからねえ。」
「……それは誰に対して言ってんの。」
運転は大丈夫か、という三蔵にも同じく問題無いと答えて八戒はハンドルを握った。もう夕刻、急いだ方がいいだろうなと考える。
その瞬間。ほんの思考の隙間に入り込み、一気に広がるイメージ。
灰色の空と、地面と、なつかしい、あれは教会の遠景、そして鐘の音。
実在した風景と有り得る筈の無い風景の交じり合った不思議な心象風景が胸を占めた。有り得る筈の無い―しかし、確かなリアリティはある。むしろ、先刻までそこに居たかのような。
そう、そこに居たのだ、自分は。
(誰かと。)
他には何ひとつ思い出せはしなかったが、大切な人だった、と彼は思う。
ふと彼は、自身が泣きたい気持ちでいる事に気付き軽く驚いた。恐らくは、昏倒している間に見た単なる夢。それも、何があったのかすらよく覚えていない夢。自分は神も、奇跡も信じはしないのだから。預言は有り得ない。
けれど。
それでも、と。
あれは、いつか出会うかもしれない誰かだったのだろうか、と思う。
(そうならばいい……願望ですかね。)
また愛せるかも、しれないから。
ならば未来のその日までちゃんと間違わずに歩いていけるように。
ガクンと、唐突にジープが加速した。各方面で非難の声が上がるのは必至だ。
「どわぁぁぁぁぁぁッ!何だよ!」
「ぎゃああああああ食いモン落としたぁぁぁぁ!」
後方からは騒がしい二重唱、しかし左側からは予想外に何の声も無い。不思議に思ったのは八戒だけでは無いようで、後ろの悟空が恐る恐る覗き込んだ。
「三蔵?……あははははははは」
しかし心配げな問いかけは何故か笑いに変わる。
「ンだよ、何なんだよ?」
乱暴に問いかける悟浄に、悟空は何とか笑いを堪えて言った。
「さ、三蔵、ゼッテーアレ、舌噛んだんだって!間違いないって!あはははは」
「マジィー!?超ダッサイじゃん三蔵サマ!」
悟浄もカッコイーの一言を最後に笑いの渦に取り込まれる。八戒は釣られて笑いそうな口元を片手で軽く覆った。まだ、口を出さない方がいい。
三蔵が、むくりと身体を起こした。
「ヒさまらうるふぁいわ!」
しかしいつもなら効果的面の怒声も更なる笑いを誘うのみだ。
「だははははははは!」
「三蔵、三蔵舌回ってないって!」
「てゆーか舌噛んでるし!」
「これがホントの噛み噛みってヤツぅ!?」
「ウマイ!今のウマイぞ悟空!」
「だろ!?」
―ガウン
銃口が何の前触れも無く火を噴いた。二人の間を掠めた銃弾に悟空と悟浄はお互いの手を取り合う。
「怖い!三蔵こえーよ!無言で発砲はマジヤバイって!」
「死ねとか殺すとかでもまだ言ってからにしてくれ!」
したら避けられる、と続けるよりも早く二弾、三弾と続く銃弾が二人の目と鼻の先を飛ぶ。シャレになんねえ、と悟浄がわめいた。
「あははははは、口が立たないとやっぱ次は手しか無いですもんねえ。」
このタイミング。
―ガウンガウン
「待て!今のは絶対八戒に撃つところだろ!?俺らじゃないって!」
「てゆーかそもそもの舌噛んだ原因が」
しかし悟空の台詞はまたもや―今度はハリセンだ―中断される。
いつもの光景、と八戒は騒ぎを斜めに見ながら思う。タイミングのいい会話に、慣れた空気。今は、確かにここが自分の居る場所なのだろう。
だから、もう少し待っていて。
何に向けてとも無く、そう考える。
「だーいたいなんでおまえ、ここに来てトばすのよ?」
一段落したのだろう、後ろからそっと悟浄が問い掛けた。ようやく大人しく席に沈み込んだ三蔵を刺激しない為だろうか。そうですね、と八戒は嘯いた。丁度、正面には今しも真っ赤な夕陽が大地に飲み込まれようとしている。
「ほら、きれいじゃないですか。たまには夕陽に向かってダーッシュ、みたいなノリもありかと思いまして。」
「おまえ、それはフツー、車ではやんねえ……。」
疲れたようにがっくりと悟浄はシートに倒れこんだ。それを気配で感じて八戒は少し笑った。不意に、三蔵がひらひらと手を振る。
「何でもいいから飛ばしとけ。今晩も野宿は御免だからな。」
「あ、舌、もう大丈夫ですか。」
「……煩い。」
「ではリーダーのご指示とあらばもう少し頑張りましょうかねえ、お願いしますよ、ジープ!」
荒野に砂塵を舞い上げてジープが進んでいく。その先には真っ赤な太陽。
長い旅路のある一日の終わり、いつもながらの風景だった。
-end-
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