スノーホワイト


  あの雪の日、彼女はここで死んだ。
―とても呆気なく。
  酒場で知り合った、安い金で唄を歌う女だった。
―別に珍しくも無い。
  本気ではなかった。
―……ならないようにしていた?
  今となっては分からないことだけれど。
  悟浄はくわえていた煙草を手に取り、ぱたりと地面に落とした。まだ消えないでいるそれから、細く煙がたなびいた。


「きれいな髪ねえ?」
  女からそんなふうに声をかけられるのは珍しいことではなかった。だが、それで会話を断ち切る気にならなかったのは珍しいことだった。
  悟浄は手元のカードから目だけを上げて、声の主を見た。
  気の強そうな目が、がちりと視線を捉えた。
「ねえ、悟浄、それあんまり好きじゃないから言わない方がいいよ。」
  横の、別の女がそうたしなめたがふうん?と答えたきり、続く言葉は明らかに彼女ではなく悟浄に向けられていた。
「でも本当にキレイよ。……キライなの?」
「ああ、まあ、コンプレックスみたいなもん?」
「全然キレイなのに。」
「うん、でも見た目がどうとかそういうの関係ねぇんだよな。」
「そう。でも私は好きかな。」
「それはどうも。」
  悟浄の髪の話がタブーであることは酒場ではよく知られていたことだったから、周囲はひやひやと二人の会話を見守っていた。しかし女は勿論、悟浄も何故かごく自然に言葉を継いでいた。
「よしきた!」
  ぱしり、とテーブルに広げられたカードにはハートのカードがAから5まできれいに揃っていた―ロイヤルストレートフラッシュ。取り分のチップに手を伸ばしながらもう一度女を見上げる。しかし悟浄が声をかけるより早くカウンターが彼女を呼んだ。
「美鈴、またそろそろ頼むよ!」
「はぁーい!」
  少し舌足らずな作り声でそう返事をして美鈴は走り出した。その先には急拵えらしい小さなステージがある。楽器はピアノだけ。その上に上がる前にもう一度彼女は振り返り、悟浄の目が自分に向いていることを確認してぱちりと片目を瞑った。
(聴いてってね?ってトコか。)
  自信過剰な女、と思ったが別に嫌な気はしなかった。
  新しい手札を吟味しながら、近くに居た馴染みの女に問い掛ける。
「さっきの…美鈴?って前から居たっけ?」
「ううん。昨日からよ、フラッと来てマスターが気に入ったから歌ってもらってるとかそんなふうに聞いたけど?」
  悟浄、昨日来なかったもんね、と後に続ける。その含みに悟浄は片手を振って別に昨日はそんなんじゃねえよと答えた。
「……うまい?」
「かは分かんないけど、なんてゆーか、うん、そう、すごい、かな?」
  すごい?しかしその疑問符は、メロディアスなピアノの前奏を殆ど切り裂くようにして伸びた高い声に飲み込まれた。すぐに、女の言った意味が分かった。
(ああ、すげえな。)
  手は相変わらず機械的にギャンブルをこなす。
  それでも、彼女の声は強引に思考に割り込んで他に何も考えさせなくする。
  聴いてってね、なんてものじゃない。
  あれは、聴かせて上げるわ、だったのだろう。
  それとももっと?
  甘美な強制力。
  捉えて、離さない。
  彼女は歌う。
―余計なものなんて要らない
―胸のまんなかだけ狙って
―この心あなたのもの

  それから、悟浄が酒場へ足を運ぶ頻度が少し増した。その結果、殆ど夜毎酒場を訪れるようになった。
  カードで身を立てるヤクザな生活。
  ほんの少しの酒とたくさんの女。
  何も変わりはしなかったが、カードのテーブルではいつも必ず美鈴と言葉を交わし、席を立つのは必ず彼女の歌を聴いてからという習慣が出来た。しかし酒場以外の場所で彼女と会うことは無かった。
  あくまで、夜のひととき、そして他愛のない会話と。
「本当、きれいな髪ね?」
  既にタブーは彼女にとってはタブーではなくなっていた。許している自分を、悟浄も不思議には思わなかった。
「ナニ、惚れた?」
  いつもの軽口も彼女には通じない。美鈴はふっとやわらかく笑う。
「あら、そんなことは無いわ。あたしが、本当にすきなのは歌だけよ。」
「歌に?」
「ええ、そう、歌に恋してるのね、歌っていれば、あたしはしあわせだから。ふふ、変な女でしょ?」
「いや、なんつーか……羨ましいな。」
「ホントに?」
「マジ。」
「……ありがと。」
  ふたりの会話は決して長く続きはしない。いつも、すぐにカウンターから呼び出しが入るからだ。美鈴はひらりと手を振ってステージに向かう。悟浄はまたカードを見つめる。
  彼女は歌う。
―余計なものなんて要らない
―胸のまんなかだけ狙って
―この心あなたのもの
  その歌詞の意味を考えて、悟浄は苦笑を漏らした。
(あなたのもの、かよ?)
  誰のものになる気も無いくせに。
  誰の心でも全部わしづかみにしていくくせに。
  ある夜、そっと酒場を出る美鈴を見た。妙に気になって、後を追った。
  そして、見てしまった。
  激しく咳き込む背中は、今まで思っていたよりもずっと小さく感じた。
「……ッ」
  地面に落ちた、黒い染みは、紛れも無い血の色だった。
「あんた……」
  しかし、続ける言葉を悟浄は知らなかった。
  荒い息を整えて美鈴はなんとか口を開いた。
「ったくもう、余計なところに気が付くのね?さ、戻るわよ、まだ歌わなきゃだし。」
「そんな身体で、かよ!もう辞めろよ、無理してんだろ!?」
  思わずそう言って、悟浄は自身そのことに驚いていた。誰かに立ち入るようなことを言う自分が、どうしてなのか分からなかった。
「他にどうすればいいのよ?あなたになんて分からないわ。」
「だったら……だったら、俺のところに来ればいい。」
  続けた言葉は、本当に考えても居ないことだった。だから、美鈴が何も答えずに居てもどうすることも出来なかった。気まずい沈黙が流れて、やがて美鈴は、彼女は―笑った。
「だから!だから、分かってないって言うのよ?あたしは、最後まで歌うの、歌ってないあたしなんて死んでるのと同じだわ、あなただってあたしの歌のことくらい、それくらい分かるでしょう!?みんな、あたしが歌えばあたしを見るわ、歌っているときだけは、みんなあたしのものなのよ、それだけなのよ!」
  一度に言って、美鈴は軽く息をついた。
「あたしには歌しかないの。歌があたしなの。だから、もう、放っといて。」
  毅然と立つ背中から、彼女の表情は伺えなかった。
  冬の気配も近づく夜の冷たい空気の中、ひとり立っている小柄な影。
  こんなときなのに。
(きれいだな。)
  そう、思った。
  けれど、自分に出来ることは何も無い、それもとてもよく分かっていた。
  その晩、悟浄はそのまま家へと引き返し、酒場通いもぱたりと途絶えた。

  カードで身を立てるヤクザな生活。
  ほんの少しの酒とたくさんの女。
  そんな男が、夜の酒場からそう長く離れていられる筈も無かった。さしあたっては生活費のため、気の進まないまま悟浄はのろのろと酒場に向かっていた。ちらちらと舞う粉雪が本格的な冬の到来を告げる、静かな夜だった。
―ずっと忘れないだろう、
  あと少しで酒場に着く、そのとき道端にごみのように横たわる影を見た。
―あの夜の身を切るような空気、
  ぎくりと嫌な予感に足を止めた。
―濃い夜の闇、
  近付くと微かな明かりが、白い地面に落ちた血の跡を嫌でも目に入れた。
―すべてのもの。
  見覚えのある髪の色と、洋服。
―現実はとても残酷で、
  何かの間違いであって欲しいという思いは理性に虚しく否定される。
―劇的な別れなんてどこにも無くて、
  確かめずとも分かるのは最初にごみのよう、と感じたその事実。
―ただそこにあるのは
  もう、それは抜け殻でしかないのだから。
―ひとりの女の死。
  涙も、悲しみも無かった。
―確かなのは
  ひとのいのちは、ほんの瞬きのはかなさで消えていく。
―それだけだった。
  分かりたくも無い事実を、突きつけられた。
(あんた、それでしあわせだったのか?)
  独白に返る声は無い。
  彼女ならどう答えただろう、それすらも分からなかった。
  だから、だ。
『だから、分かってないって言うのよ?』
  ああ、何にも分かんねぇよ。
  何が出来たのか。
  何をしたかったのか。
  何も分からないで、立ち尽くしている。
  そう思った途端に、涙が出た。
  分からないことが、悲しかった。
  ひとのきもちのすれちがっていくことが、とても悲しかった。


  星の瞬く音。
  冷たい闇の中で絶え間なく響き続ける。
  彼女の歌う唄はそんなものだった。
  雪の降る音。
  空っぽの心にしんしんと降り募る。
  彼女の歌う唄はそんなものだった。
  寒さに耐えて凛と咲くスノーホワイトのように。
  唄に恋したのか、彼女を愛したかったのか、今となっては分からないことだけれど。
  こんな夜には、いつも彼女を思い出す。
  雪の静かに降る、こんな夜には。
「やはり、ここでしたか。」
  背後からの八戒の声に、悟浄は振返ることなく肩で息をついた。
「ったく、何もかもお見通しってところか?」
  苦笑する空気が伝わってくる。
「別に、あなたがここへ来る訳までは知りませんよ。」
「―ふん」
  その答えが気遣いなのか、言葉通りなのか計りきれず悟浄はただそう返した。足元に目を遣り、先程捨てた煙草が踏みもしないのにすっかり火の気を失ってしまっているのに気が付く。
(……大分、時間経ってるな。)
  心配、かけたか。
  殊勝なことを考えた傍から八戒が言う。
「今悟空と三蔵が来てて大変なんですから。なんだかあなたも、みんな揃わないといけないらしいですよ。」
「はぁ?」
  ようやく振り向いた―振り向ける顔になった―悟浄に八戒は肩をすくめて見せた。
「クリスマス、だからだそうです。」
「ああ…ああ、クリスマスか……。誰だよ、あのサルに余計なこと吹き込んだのは?」
  言葉を継ぎながら既に二人肩を並べて歩き出す。
「あなたじゃないんですか?僕はてっきりそうだと。」
「んなこと言ったらこっち来るのは目に見えてんだろ、それを俺がわざわざ教えるか?」
「それもそうですねえ。でもまさか三蔵じゃないでしょうし。」
「まあ、あいつもそれくらい自分でどっかで知ったのかもな。」
「でしょうねえ。悟空も成長してますから。」
「成長、か。」
  彼女が死んでからも、変わらずに時間は過ぎてゆくから。
  季節は巡る。
  咲いた花は散り、また新たな命の礎になる。
  それでも、いや、だから、つよくのこるものもある。
  これからもきっと忘れずにいるのだろう。
  雪の降るごとに訪う恋の残像。
  つくづく手に入らないものばかりが欲しいんだな、そんなことを思いついて悟浄は口の端に軽く笑みを浮かべた。
「なんですか、急に。」
「いや、サンタクロースにナニお願いしようかってな。」
  八戒がぽん、と手を打つ。
「ああ、それで思い出しました、悟空のたっての希望でサンタクロースのコスチュームが用意してあるんですが、あなたで決まりですからね。」
「は?俺?」
「そうです、居ないあなたが悪いんですよ?」
「ったく面倒な……。」
  口で言うほど悪くは思っていなかった。
  感傷に浸るよりもその方がいい気がしていた。
「今日限りのサービスだからな。」
「ま、クリスマスですしね。」
「そ、クリスマスだからだ。」
  頷きあって雪の道に足跡を並べながら、二人は温かい明かりの灯る家へと歩いていく。




END





  さて、クリスマスメルマガに載せたショートです。激しく悟浄が主役でオリジナル色強すぎです(汗)。ま、まあね、こんなのもいじゃんッ。
  別に具体的にどの曲ってワケじゃないんですがGLAYの曲のイメージで書きました。なんかこういう、悲恋ってカンジが、とてもするので。そんでバックは雪なんですよ、なんか。峰倉さんもそうおっしゃってますが、女性に本気にならないとゆー悟浄さん。でも私はなんか彼はいつでも本気になりたがってはいるよーな気がします。なんとなく。そういうカンジが出たらなあと思って書きました。いかがでしたか?
  クリスマスの割りにハッピーぽくはないですが。まあでもCDTVでクリスマスに聞きたい曲に「いつかのメリークリスマス」が入ってたくらいですから、さみしいカンジのクリスマスもありでしょう!!