サラサラサラサラ
……五月蝿いな。
何の音だろう。
サラサラサラサラ
青い、鼻腔をくすぐる草の匂いと、太陽の気配、温かい空気。
それから。
サラサラサラサラ
ああ、そうか、水音だ。
草っぱらの広がる小川のほとり、それは幼い俺のひみつの場所だった。村から少し外れたその場所には、村の子供たちがわざわざ遊びにくるような理由になるものも無くて、だから俺にはとても心地のいい場所だった。陽光は降り注ぎ、水はただ流れ、誰も、何も、俺を拒みはしない。
兄を好きだった。母を愛していた。
だから二人に目を瞑っていた。
けれど、それでも耐えられないときはここに来た。
サラサラサラサラ
今も変わらず、水はただ流れているのだと、ぼんやり考えた。
そのとき、まだ幼さの残る紅い髪の少年―悟浄はまたいつもの場所に向かって歩いていた。誰もいない、だから誰にも傷つけられないで居られる場所。そのときの彼はそんなことは自覚していなかったかもしれない。ただ、何かに耐えられなくなったとき、自然に足はそこに向かっていた。
流れに石を放って、ぼうっと過ごそう、そんなことを考えながら悟浄は歩いていた。
丘を越えて目下に川が見え始めたそのとき、悟浄は思わず舌打ちを漏らした。先客が居る。どうやら同じ年頃の子供のようだが、何故またこんなところにやってきたのか。それに彼もまたひとりのようだ。
(一体誰だ……?)
もう少し近付いて、悟浄は彼が見たことの無い子供であることに気が付いた。村には金髪の子供は居なかった筈だ。更に近付いて、悟浄は彼が奇妙ななりをしているのに気が付いた。あれでは寺の小坊主……。何処かの寺の使いに付いて来たにしても、村に僧が来ていたと言う話は聞かなかったし、第一こんなところに供がひとりで居るのもおかしい。
更にもっと近付いて、悟浄の頭のクエスチョンマークの数は最高潮に達した。
「なんだって箒……?」
そう、金髪の少年はまるで掃除の途中でもあるかのように箒を手にして立っていた。
それはあまりに納得のいかない光景で、不思議に思っているうちに悟浄は少年の目の前に立っていた。少年もまた険しい目付きで悟浄を見ていた。言葉の無いやりとりに悟浄は辟易して口を開いた。
「あんた誰……?つーかここで何してんの?」
しかし、相手の口からは意外な答えが返ってきた。曰く、知るか、と。
それで悟浄は会話の糸口を失い、はあ?と言うしかなかった。コイツは手強そうだ、脈絡無くそう考えて悟浄は川を眺められるその位置にそのまま腰を下ろした。得体の知れない来訪者の存在は予定外だが、その為に何も全てを予定外にする理由も無い。悟浄の放った石が水面をぴしゃりぴしゃりと跳ねて、流れに二つの同心円状の波紋を作った。
見知らぬ少年の目もまたその波紋を追っていることに気付いて、悟浄は再び声をかける。
「あんたも座れば?」
少年は渋々といった様子でのろのろと悟浄の脇に腰を下ろした。悟浄が二個目の石を放ったとき、その水音に紛れ込ますように少年が何事か呟いた。聞こえなかった悟浄が問い返すと、これもまた気が進まなさそうに言った。
「本当に知らないんだ。……からかってるワケじゃない。」
悟浄が見返すと、少年はふいと視線を川面に逃した。他の誰かからそれを聞いたなら疑うところだが、悟浄にはこの紫暗の瞳が嘘をついているようには見えなかった。それに何より、少年は孤独で、何処か心細そうで、迷子の子供のようだった。
「なら、困るな。」
「どうだか。」
少年は投げ遣りに言う。
ぴしゃりぴしゃりぴしゃりぴしゃり。
今度は三つだ。今日は調子がいい。
「俺が帰らなくても困るヤツはいないだろう。だから、俺も特に困らないな。」
悟浄は手にした石を何度かそこで弾ませた。気持ちは分かるので、きっと誰か心配してるさとかなんとかの気休めを言うのはやめておいた。
「困らないたって、子供なんだから、食うとか寝るとかやっぱり困らねえか?普通。」
「それはまあ……」
どぼん。
石は弾まずに一度で水面から姿を消した。やはり不調なのかもしれない。
「本当に何も分からない。寺で境内を掃除してたんだ。気が付いたらここに……」
帰る一番の手掛りになるだろう、問題の核心を悟浄は尋ねた。
「寺って何処の?」
「XXだけど。」
悟浄の手元から投げようとしていた石が滑り落ちた。
「XX!?ココ、●●村なんだけど。」
少年の表情からその心情の変化は読み取れなかったが、嘘ではない口調でこう返した。
「……驚いたな。」
二人の示した二つの地名はとても子供の足で一日の間に往復できる距離にある場所ではなかった。その二人が今こうして河原で並んで腰掛けている。いっそSF的とも言える展開にしてはのどかな光景だ。
「まあ、焦っても仕方ねぇか……。」
「そういうものか?」
悟浄は気を取り直して拾い上げた石を放った。今度はちゃんと三回水面を跳ねて石は沈んだ。少年もまた静かにそれを見ていた。不思議と二人は落ち着いていた。
ややあって、悟浄は形のいい―平たくてかいだような形のヤツだ―石を選んで少年に放ってよこした。
「あんたもやれよ。考え事するときにはなかなかいいもんだぜ。」
「……フン」
少年の放った石は、その繊細そうな彼の容貌からは意外な程不器用な放物線を描いて一度も跳ねずに沈んでいった。少年が舌打ちを漏らすのを聞いて悟浄は少し笑った。
「あんた、スッゲー下手。」
「放っとけ。」
「まあまあ、よく見てろってこうやるんだよッ」
一層力を込めて投げた石は、横滑りにひゅっと殆ど直線に近い軌跡を描いて水面を打ち、四度も跳ねた。喜ぶ悟浄に、少年はフンと冷たい視線を向けるだけだった。しかし悟浄はそれが少なからず負け惜しみのようなものだと分かったので、やはり笑った。
その様子を見て取り、少年は今度は自分で手近な石を拾い上げ、川へ向かって放った。
今度は二度ほど水面を跳ねた。
「そうそう、それでいいんだよ。」
少年は答えなかったが、また新たな石を探して視線を地面に向けていた。悟浄も同じように石を探した。
そうして午後いっぱい、時折つぶやくようにぽつりぽつりと言葉を交わしながら、しかし殆どの時間は無言で二人は川に石を放り続けた。光の色が眩しい赤みを帯びてくる頃には、少年の放った石も三度くらいは跳ねるようになっていた。
「そろそろ帰らなけりゃな。……あんたはどうするんだ?」
「どうにかするさ。」
悟浄の問いに少年はまた投げ遣りに言う。どうにかったってどうにかなるもんか?悟浄はそう思ったが頑固そうな少年の表情を見るにつけ、何も言わずのろのろと立ち上がった。
「じゃあな。」
「ああ。」
素っ気無かった。しかし、背を向けて歩き出した悟浄に少年は聞こえるか聞こえないかのきわどさで、告げた。悟浄にはちゃんと聞こえていた。
『石の投げ方、教えてくれてありがとう。』
それで悟浄は振り返った。母親はあまりいい顔をしないだろうが仕方が無い。
「おまえウチに……あれ?」
ウチに来るか?残りの言葉は行き場を無くして宙に浮かんだ。何故なら、その言葉を向けられるべき人物がまるで見当たらなかったからだ。少年の姿は空気に溶け込みでもしたかのように消えてしまっていた。呼んでみたが答える声は無く、よく辺りを見渡してもやはり少年を見つけることは出来ず、悟浄にはひとりで家に帰るしか道は残されていなかった。
翌日、何となく気になって同じ場所に赴いた悟浄が目にしたのは、またしても別の来訪者だった。それも、昨日の少年とは随分対照的な。河原で蝶だか何かを追って無邪気に走り回る様子に、悟浄はそこに居るのは村の子供ではないかと思った程だ。
しかし近付くとその考えが間違いであることは明白だった。少年のきんいろの瞳はそう滅多に見かける類のものではなかったし、それに……。
所在を決めかねて立ち尽くす悟浄に少年の方で気が付き、にっと笑いかけてきた。
「ここらのヒト?ええっとこういうときって……ああそうだ、コンニチハ。」
「……ああ」
悟浄は曖昧に返す。どうもペースが掴みにくい。
「で、ここらのヒトなのか?」
「ああそうだけど。」
少年は輝く瞳を周囲に走らせて、本物の感嘆とともに言う。
「ここ、いいよな、あったかいし、太陽もぴかぴかで、川があって、風が吹いてて、すごくいいよな。」
どれも当たり前のことに思えたが、彼の言葉にかかるとそのどれもが特別に素晴らしいものになっていくようだった。日差しは温かく、水は流れ、風が草の匂いを運んでいく。結構なことだ。
「ああ、そうだな。」
何処からきたのか、ここで何をしているのか、昨日の少年に浴びせたのと同じ質問が頭を過ぎったがここで問うても無意味な気もしていた。少年が、なあ、と再び声をかける。
「こっち来て、一緒に遊ぼうぜ?ひとりだとツマンナイんだよ。」
まあ、いいか。
焦っても仕方ない、と昨日のアイツも言っていたことだ。
河原に続く緩い下り坂を悟浄は一気に駆け下りた。
「で、何するんだ?」
「取り敢えず―そうだ、鬼ごっこ!!」
「はあ?」
「俺逃げるからなッ」
「あ、クソ!」
二人の追いかけっこは最初こそおとなしく陸地に限られていたが、そのコートが水の中にまで拡大されるのにそう時間はかからなかった。問題は無い。今日はこんなにあったかいのだから。
それから二人は笑い、ときに悲鳴をあげたりもしながら飽きるまで走り続け、やがて疲れに負けて並んで腰を下ろした。昨日とは随分違う感じだな、と悟浄はふと考えた。
自分のすぐ横の地面に下ろされた少年の腕を見て悟浄はどきりとする。
そう、最初に感じた違和感。
「おまえコレ……なんか、誰かにひどいことされてんのか?」
「え?何?」
悟浄の示すものの正体にやや遅れて気が付いて少年はああ、と頷いた。それは、少年の手足にはめられた冷たい金属の枷だった。少年の明るい笑顔や振る舞いからは想像もつかないこの小道具は、それ故に一層異様に見えた。
「いやもう慣れてるから平気なんだよ、軽いし。」
少しも深刻ぶることなく答える少年に悟浄は自分もそういう態度で通すことに決めた。
「うそ、重いだろコレは。」
「そんなことないって、持ってみたら分かるよホラ。」
少年は無造作にその腕を悟浄に預けた。
「――ッ!!重い、絶対重いコレは!!」
「軽いって!!」
「おまえが怪力なんだよ、ぜって―そうだッ」
ひとしきり重いいや軽いと騒いでいたが、少年がふと言葉を途切らせた。
「なに?」
「いや、俺もききたいことあるんだけどイイ?」
悟浄はああ別にいいけど、と返す。
「それ、その髪。」
悟浄は表情を硬くした。
紅い髪、瞳、禁忌の証。生れ落ちたときからの罪の烙印。
コイツもか―しかし、悟浄の予想は裏切られた。
「スゲェ赤ぇな、ちょ―かっけーよ!」
「……?」
怪訝な顔をする悟浄に黄金の瞳の少年は繰り返した。
「かっけーよな!みんな、そんな色じゃないんだろ?いいなー。」
「……そうか?」
「だよ。」
まっすぐ見つめて繰り返す少年から悟浄はふいと目を逸らした。そして、言う。
「……サンキュ。」
それを見て、少年は満面の笑みを浮かべた。だが、その笑みはすぐに消えた。
「どした?」
「あ―も―オレ帰んなきゃ。」
「はあ?おまえ、どっから来たかも分かんねえのにどうやって帰るんだよ?」
「ん―そうなんだけど。なんか、分かるんだよ。もう帰らなきゃって。」
尚も疑問符を顔に貼り付けたままの悟浄の背中を少年はぐいぐいと押す。
「俺、見送ってやっからさ、先に帰れよ、な?」
「その方が、いいのかよ。」
「うん。」
悟浄は溜息をついて背を向けた。振り返りはせずにひらひらと手を振る。奇妙なヤツなら昨日のアイツでもう慣れた。
「それじゃあな。」
「うん!バイバイ!」
声の感じで、少年が思いっきり手を振っているのが分かった。少し歩くと、おい、と少年の呼び止める声がして、悟浄は振り返った。目が合ったところで、少年は言う。
「またな!」
「ああ……またな。」
再び、歩き出す。
彼は何時まで手を振っているだろう、そう思ってまた振り返ったとき、そこには誰の姿も無かった。遠くなった小川の水面に西日がきらりと反射している、それだけだった。何処かからやって来た彼はまた何処かへと帰っていったのだろう、なんとなくそれで悟浄は納得していた。
やはり気になって翌日もまた河原に訪れた悟浄だったが、そこには意外というべきかこうなったらやはりと表現すべきなのか、また別の少年が居た。居たと気付かせないほどにひっそりと。彼は落ち着いた様子で河原に腰掛け、静かに本のページを繰っていた。まるでちょっと散歩ついでに読書に来ました、とでも言うように。
しかし悟浄の目にした限りで、その少年の少しも日に焼けていない白い肌は彼がわざわざ好んで野外で読書するような人物ではないだろうということを伺わせた。それならば、彼がここに居る理由はひとつ、『気が付いたらここに居た』に違いない。
何となく声を掛けるタイミングを失ったまま悟浄はすとんと彼の隣に腰を落とした。
しかし少年の目が規則正しく並んだ文字から離れることは無かった。ぱらり、とまた新たにページをめくる軽い音をさせただけだった。
悟浄はすっかり困ってしまったが、かと言ってこうして隣に座ってしまった以上声を掛けないのもはばかられる。なのでわざとらしくても仕方が無い、と半ば自棄に口を開いた。
「よう、俺はここらの村に住んでるんだけど、あんたはどっから来たんだ?」
無言。悟浄は辛抱強く待った。
ぱらり。
少年の目は本に落とされたままだったが、微かな気配で彼が答えようとしたのが分かった。
「……ここでは新参者は挨拶をして回らなけりゃならないって規則でもあるのかい?それともあんたがそういう類の人間なのかい?」
そう来たか、悟浄は言葉を失った。
「イヤそうじゃなくって……」
「だったら、他人のことは放っておくんだね。あんたと僕は少しも関係の無い他人だろう。」
「まあ、そう、そうだけどよ……」
とりつく島も無いとはこのことだ。流石の悟浄も今度こそ攻撃手段を思いつかず、手近な石を川に向けて放った。考え事をするにはこれが一番だ。
ぴしゃりぴしゃり。
二回か。不調だ。
確かに彼の言う通り、目にした他人全部に挨拶して仲良くする必要は無いし、そうしたいともそうしようとも思わない。全く持ってその通り。しかし、先日からの流れからすれば彼は多分困っているだろうし、それを差し引いても自分と彼らの間に何らかのつながりがあると考えてそう間違っては居ないのではないか。そうでなければ、何故降って沸いたように、悟浄のあらわれる時間を選んで彼らがやって来るのだろう。それも何処からとも無く、そして何処へとも無く去ってゆく。
限らせた時間しかあらわれない砂漠の蜃気楼のように。
古臭い厚い表紙に閉じ込められた御伽噺のようにひそやかに。
(このヘンに異次元のトンネルでもあるのかね。)
悟浄は自分の途方も無い考えに少し笑った。だが少年はその理由を尋ねることもしない。
こいつ、プライド高そうだな。
そう思った。そういう相手にこの手の質問をするのは気が引けたが、それでも今のところそれ以外に彼から何らかの糸口を見つける手段はなさそうだった。
「あんた、帰り方分かってないだろう、大丈夫なのか?」
ぱたん。
今度は本を閉じる音がした。ふわり、と印刷物の匂いが悟浄の鼻をくすぐった。
「あんたおせっかいだといわれたこと無いか?確かにその通りだよ。けど、話したからといってどうにか出来るものでもないだろう。」
今度は、少年の目はまっすぐに悟浄に向けられていた。
眼鏡の向こう、冷たい硝子に隔てられた、翡翠の双眸。
それは彼と悟浄を分かつ硝子よりもずっと冷たい光を湛えていた。人間の温度を感じさせない、まるでマネキンのような。その理由はすぐに分かった。刺すような言葉のどれにも、少年の感情はたくされていないからだ。ただ、口を開いた、それだけに過ぎない。
けれど、冷たい瞳はそれでもきれいだと感じさせた。
なのできっとコイツが笑えばもっときれいなんだろう、そう思った。
「……何言ってんだ、あんた。」
少年の眉が怪訝そうな表情を作った。思わぬきっかけでマネキンは人間に化けた。笑った方がいい、どうやら悟浄は考えるだけでなくそう口にしたようだった。
「いや、笑った方がいいぜ、絶対。」
少年は再び本を開いた。
「笑ったってそれは無駄にエネルギーを消費するに過ぎないよ。なんにもならない。」
「そうでもないと思うけどね。」
しかし少年は答えない。ぱらり、と本のページを繰る。
悟浄もぴしゃりと音を立てて石を放った。
しばらくまたきっかけを失って悟浄は石を投げ、少年は本を繰り、時間は過ぎていった。
どれほど経っただろうか、悟浄の石を放りかけた手がぴたりと止まった。
これなら或いは。
投げようとした石をそのまま地面に落とし、悟浄は両手を顔に持っていくと、なるべく自分の声が相手に無視をさせないだけの威厳を持って響くように期待しながら、少年に声を掛けた。
「オイ、ちょっとこっち見ろよ。」
少年はのろのろと、しかし悟浄を見上げた。
そして、動きを止めた。
悟浄の頭を失敗の二文字が大量に駆け回りだした頃、少年は身体を折って肩を震わせ出した。少年は咳き込むほどに笑っていた。悟浄は自分の顔を奇妙にゆがめていた手を離し、満足げにその様子を見遣った。
「オイオイ、無理せず笑っとけよ、そういうときは!」
悟浄自身も目論みが成功したうれしさからニヤつきそうになるのを堪えて乱暴なほどばん、と必死の様子で俯く少年の背中を叩いた。五月蝿いな、とかなりの努力の末紡ぎ出されたであろう抵抗の言葉が漏れる。しばらくしてなんとか笑いの発作から抜け出した少年は、まだ自分を見ていた悟浄からふいと目を逸らした。
「……だから、笑ったって無駄にエネルギーを消耗するだけだって言ったろう。」
そうかね、と悟浄は空を仰ぐ。
「この前ここで会ったヤツがさ、よく笑うわよく走るわ確かにありゃエネルギーの無駄遣いの見本みたいなヤツだったな。」
少年の瞳は相変わらず冷たい硝子の向こうにあったが、それでも黙って悟浄の話を聞いていた。
「でもよ、なんかよかったぜ。おかげで俺もまあ最初は笑えねえ気分だったんだけどなんか笑えて、その方がなんかいいんだよな。」
「誰かに笑いかけられれば笑い返すってコトか。」
「んなトコだな。」
そう、と少年は改めて悟浄を見る。
「あんた、単純なんだな。」
がくり、と悟浄は肩を落とす。そう来るかテメェとつっかからんばかりの勢いの悟浄にしかし少年は相変わらず淡々とした口調で、しかしそれまでとは少し違う言葉で、こう告げた。
「……でもそれが人間なのかもしれないな。」
硝子越しに彼は、けれど夕陽を見つめている。
「僕は、ニンゲンになれるだろうか。」
「はあ?おまえ何言って……」
しかし少年は続ける。
「誰かに笑いかけられてもそれを信じることの出来ない僕が、ニンゲンと言えると思うかい。」
そこまで一息に言って、少年は悟浄を見返した。初めて、翡翠色の瞳がまっすぐに悟浄に向けられていた。今度は悟浄が目を逸らした。夕陽が眩しい。
「さっき笑ったろう。」
「それは」
「違わねぇよ。」
少年の言葉を遮って悟浄は言う。
「笑ったじゃねえか。あれでいいんだよ。面白いときゃ笑えよ。笑いたいヤツに会ったら笑えよ。それでいいじゃねえか。」
「そうか。」
「そうだよ。」
大体テメェ頭イイだろうそういうヤツに限って……改まった雰囲気が照れくさくて矢継ぎ早に浴びせようとした言葉が、思わずぴたりと止まった。
「……僕は今、ちゃんと笑えてるかい。」
ややあって、悟浄は頷いた。少年は微笑していた。初めて口を開いたときの、冷たい印象は何処にも無かった。
「ああ、バッチリだぜ。」
「それはよかった。」
ふ、と少年は空を見上げる。
「でもしばらくはこの顔もしまっとくことになりそうだな。あんた以外にはまだ見せられそうも無い。」
「……明日も、来ればいいだろう。」
無理なのは、分かっていた。少年はやはり首を振った。
「分かるよ、あんたとはしばらく会えないだろう。そんな気がする。それにもう、帰らなきゃ。」
「そうか。」
流石に三度目ともなれば、言われずとも分かった。一体彼らが何処からきて何処へ行くのか、そんなことは少しも分からなかったが、どうでもいいことだった。
「……それじゃあな。」
「ああ、また。」
二人はただそう交わして、悟浄はあっさり背を向けた。振り返ることはしなかった。そこにもう彼は居ないだろうから。
笑顔を向ければ、笑顔が帰ってくると、無邪気に信じていた。
だから、いつかはあのひとも自分を見てくれるだろうと、そう信じていた。
きっと、信じていたかった。
「これ、花屋のおじさんが母さんにって。」
母は、少し微笑んだようだった。期待に、胸が膨らんだ。
「まあキレイ。」
しかし。
「まるで血のよう」
期待は裏切られる。
救いの手はやってこない。
奇跡のような出来事は、自分の身には起こり得ない。
すがりつこうにも、そのよりどころはあまりに頼りなくて、けれど泣くことも出来なくて、ただ痛かった。
おかあさあん、おかあさん。
ただ、信じていたかったんだ。
いつか、自分も愛されると、そういうふうに、信じていたかったんだ。
おかあさん、おかあさん。
愛されないのならば、どうして自分はここにいるのだろう。
何でもする、どんなふうにもしてくれていいから。
おかあさん、ここに居てもいいのだと、ただそう言ってくれさえすれば。
波打ち際で砂の城を築くように、何処かで絶対に叶わないと知りながら、それでも騙されていたかった。
赤い花びらが舞っている。ひらり、ひらり。
きれいだよ、おかあさん。
赤くても、こんなにきれいなんだ――――
(夢見サイアク。)
悟浄は顔を起こし、そこで自分の顔が組んだ腕の上、更にその腕は椅子の背もたれの上にあるというとんでもない事実に気付く。椅子に行儀悪く反対に腰掛けた上で……。
(居眠りかよ、ダッセ―。)
伸ばした背骨と首からはぽきぽきと歯切れの悪い音がする。まあ、こんな無茶な姿勢で眠って寝違えなかっただけマシかもしれない。
「あ、起きましたか。」
部屋のドアをそっと開けたのだろう、音も無く現れた八戒の腕には毛布があった。返事を待つでもなくたすかりましたよ、と続ける。
「起こしたって起きないんですから。あなたみたいな大男、わざわざベッドに運ぶのもイヤですし、風邪を引かれても面倒ですし。明日も早いですよ、眠るんならベッドでどうぞ。」
相変わらずの口うるささだが、何故か今は文句よりも笑いの方が込み上げてきた。
「なんですか、気味悪い。」
訝しがる視線。深い緑の瞳。
悟浄ははっとした。金髪の少年、野原を駆け回っていた少年、そして翡翠の瞳の少年、彼らはもしや―。
(違ぇねーや。)
しかし、夢の中でまで嫌でも四六時中顔をつき合わせている男連中と会うとは厄介な性分だ。
「ハハ」
「だから何ですかー、もう付き合いきれませんよー、僕ももう寝ますよー、部屋は隣ですけど、それではおやすみなさーい」
何故かそのとき、見つめる悟浄に応えるようにドアまで辿り着いていた八戒が振り返り、それで二人の視線がカチリと合った。
なので、悟浄は尋ねてみることにした。
「あのなあ、もしかしておまえって小っさい頃、愛想のねーガキじゃなかった?」
「……はあ?」
しかし何言ってんですか、と呆れる台詞の前に微妙な間が生じたのを悟浄は見過ごさなかった。それで、また笑った。
「……ホント、気味が悪いですね?」
「いーえー、なんでもないデスよー、こちらのハ・ナ・シvv」
遂に八戒は諦めて溜息をつくと、おやすみなさいの言葉を残してドアを閉めた。ベッドに横になると、ひとりになって静かになったせいか外の音が聞こえてきた。
サラサラサラサラ
近くを小川が流れているらしい。
そのせいか、と自嘲にも似た気分の笑みを浮かべて悟浄は目蓋を閉じる。
サラサラサラサラ
まだ余韻の残る夢の景色とその水音が、まどろみの中で重なっていく。
そしてやがてはいつかのあの風景を脳裡に映し出す。
サラサラサラサラ
そこには、在り得なかった筈の誰かの姿もある。
青い、鼻腔をくすぐる草の匂いと、太陽の気配、温かい空気、それから―。
サラサラサラサラ
いつか、夢を見ていた。
紫暗の瞳の少年は、何故か川の辺で箒を持って立っている。なので悟浄はそりゃあおかしいぜ、どう見てもよ、と声をかけた。ああ、おかしいね、と硝子の向こうの瞳を確かにほころばせて黒髪の少年も頷いた。すると、川で魚を追っていた少年が何事かと岸に上がってきては、やはりおかしいと容赦なく笑い転げた。あまりに皆が笑うので、そんなに笑うことはないだろう、と遂に少年は箒をかなぐり捨てた。
「俺にだってなんでか分からねェんだ、そんなにヒトの不幸がおかしいか!?」
「だってぜってーおかしいよ、それはー、なあ!?」
「ハハ……だね、おか、しい……」
「実はおまえって笑い上戸じゃねえの!?」
「放っとけよ……」
「あんたたちヒトが大人しくしてると思って……!」
遂に紫暗の瞳の少年が腕まくりするにいたって、その他の少年たちは嬌声を上げてちりぢりに走り出した。それを追って彼もまた走り出す。
くたびれるまで走って声が枯れるまで笑っていた。
陽光は降り注ぎ、水はただ流れている。
終わることの無いひみつのとき、ひみつの場所で、今も少年たちの笑い声は聞こえている。
-end-
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