空気が冷たくなっていた。
空が暗くなってからはもう随分経っていたが、間に合うだろうと、そんなふうにタカを括っていた。何より街までは後少しだったから、立ち止まるよりは急いだ方がいいだろうと判断したのだ。
八戒は渋い顔でアクセルを強く踏み込む。
「うわああああああああああああああッ」
「あてッ」
バックシートでこづきあっていた二人が仲良く何処かにぶつかったらしい。
「……ほら、ちゃんと座ってないからですよ。」
「てかだって悟浄が俺にちょっかい出すんだよ!大人しくしてろよな!」
「テメェが暇だ暇だってうるせェから遊んでやったんだろ?」
どちらも八戒の言うことなど聞いてはいない。
「面白くない!」
「暇じゃあねえだろ?」
「屁理屈!」
「何とでも言ってろよ、脳味噌軽量型のコザルちゃんは。」
「悟浄こそ大人のクセに落ち着きねェんだよ、そうかやっぱゴキブリだもんな!」
「あんだと―」
悟浄の台詞が唐突に途切れる。
即頭部に冷たく固い感触が容赦なく押し付けられる。
「今すぐ二人揃って落ち着かせてやろうか?」
三蔵だ。前のシートから器用に手を伸ばしている。夕方になるとやはり疲れも出るのか輪をかけて機嫌が悪い。悟浄は勿論、悟空もひらひらと両手を挙げた。
「謹んで大人しくさせて頂きます。」
「右に同じく。」
「―よし。」
三蔵はやれやれと溜息混じりにシートに深く沈み込んだ。こうすると少しは風当たりが弱くなる。ジープはかなりの速度で走っていた。風と舞い上げる砂。荒涼たる地面に轍を残しながら疾駆する。
後ろの二人が急に大人しくなったせいで風とエンジンの唸りの混じった低い音だけが耳につく。まるでスイッチでも切ったかのような様子に八戒は軽く唇の端を持ち上げた。
「……なんだ?」
三蔵が目敏く片眉を上げる。
「いえ、なんでもないですよ。……相変わらずだなと思いまして。」
「五分も持てば上等ってとこだろう。」
「ははは」
三蔵は目を逸らして外を見遣る。一際黒く、濃い雲の陰は先よりもずっと近く感じられる。本当に少ししか立っていない筈だ。夕立のような空気。いそげよ、という言葉はしかし結局言われず仕舞いになった。
ポツリ、と。
頬に、額に、冷たいものを感じて四人が空を見上げたのは殆ど同時だった。
「―雨」
悟空の言葉はしかし、轟音に飲み込まれた。
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああッ」
「うるせぇ静かにしろ、危ないぞ?!」
急激に嵐のように降り注ぐ雨と、地面に落ちた雨粒が乾いた土の上に作る波紋がいっせいに視界を埋め尽くし、耳だけでなく目までおかしくなりそうになる。地面がちらちらと揺れているようだ。そしてむせかえるような土の匂いと。目に、耳に、鼻に、肌に、雨が全身の感覚に訴えかけてくるようだ。
八戒は身を低くしつつ目を細めて、ハンドルをしっかり握りなおすと声を張り上げた。
「もうこのまま行きますから気を付けてくださいね!」
悟浄がやはり大声で応じた。風に雨に翻弄される長い髪を片手で抑え、逆の手をシートの背に回す。
「行け行けもう行くしかねェだろ!」
八戒が何事か返すが、それは雨に、そしてジープの上げる水しぶきの中に飲み込まれてしまった。
「うーわー、びしょぬれぇ―。」
悟空は肌にまとわりつく衣服を指で持ち上げる。立っている床の上には水溜りが出来る程だ。濡れて顔を覆う前髪をうっとうしげに払う。悟浄は水も滴るイイ男ってな、と嘯き三蔵は顔をしかめた。
「すみません、汚してしまって。」
「いえ、構いませんよ。お客さんこそ、着替えとか大丈夫ですか?よかったら何かお貸ししますけど。」
「あ、それは助かります。」
愛想よく宿の女性からタオルを受け取るのは八戒だ。部屋の鍵とタオルを渡し終えた女性は着替えを持ってきますからお部屋へどうぞ、と言い残して奥へと小走りに去っていった。
八戒はタオルを回して、二本の部屋の鍵をぶら下げる。
「ツインが二部屋だそうですけど、どうしましょうか。」
「あ―、俺、じゃあ悟浄とー。」
悟空がタオルの間から顔を出して、やや気の進まない様子でそう言った。その視線は未だ雨が打ちつけられている窓に一瞬向かい、そして鍵の一つを手にした。悟浄がフーン、と何の気なしに返事した。
「珍しいな。ま、イイけど。」
「ンだよ、なんか文句ある?」
「イーヤー、別に。んじゃとっとと上がるか。」
「なんかイヤな言い回しー。」
「いいだろ別に。」
二人はなんだかんだと軽口を叩きあいながら階段を昇っていく。その二人の姿を見送って八戒は少し笑った。
「なんだ?……さっさと行くぞ。」
タオルを肩にかけたまま三蔵は、横から八戒の手にあった鍵を奪った。
「いえ、雨が降ってるとあなたがナーバスなものだから、避けてるのかなと思いまして。」
既に階段に向かい背を見せていた三蔵はフン、と吐き捨てた。
「そりゃあ、お互い様だ。」
八戒は窓の外を見て溜息を吐いた。
「……これは一本取られましたね。」
夕食が終わると、やはり雨に打たれて疲れていたのか、隣の部屋はすぐに静かになった。
八戒は濡れた荷物を一応床に広げて見ては溜息する。乾くには時間がかかりそうだ。その様子を見上げてジープが同情するように一声鳴いた。
「……ああ、ジープも今日はお疲れ様でした。あんな中で走らせてしまいましたからね。」
笑顔を向けるとジープもまた答えるように鳴く。
視線を上げれば陰鬱な窓の外の光景が目に入る。
幾分雨脚は弱まり、今は静かに糸を引くように降っている。音もなくただそこにある。水滴が筋になって窓硝子を滴り落ちていった。
雨の日なんて、そんなものはいくらでもあって。
それが普通のことなのだと分かってはいても。
思い出すことに何の痛みも無いといえば嘘になる。
いつか今とは違った気持ちでこんな日を過ごせるときが来るのだろうか。
―分からない。
忘れたいわけじゃない。
―それだけは確かなこと。
いくらか、窓の向こうの闇に見入っていたようだった。
ガタ、と三蔵が椅子から立ち上がる。煙草の煙が細い筋になって消えた。
「ああ、もう休みますか。電気、消しましょう。」
振り返った八戒に三蔵は短く応じる。
「そうだな、明日も早く出るか。……雨が上がってたら、だが。」
「そうですね。」
一度ベッドに向かい、思い直したように三蔵も窓まで歩いてきた。黙ったまま、暗闇を通して止まない雨に目を向ける。水の気配だけがそこに確かに雨の降っていることを感じさせる。
「明日には止みそうですね。」
そう、誰にともなく呟いた八戒をちらりと見て三蔵は窓から離れた。
「待ってりゃいつかは止むだろう。」
そのままばさりとシーツをめくってベッドに入ると背を向けて目を瞑る。八戒は小さくおやすみなさいと告げた。
電気を消そうとスイッチに向かいかけ、今一度外を見る。
いつかは、止むから。
今はまだ、静かに募る痛みに身を任せていてもいいかと、そんな風に思った。
-end-
|