ながっ、ヤバイすぐさま戻るッ、帰るッ!

 

 

 

雨が降る。

 乾きかけた記憶を新しくするように。

 雨が降っていた。

 血と永遠の沈黙を洗い流すように。

 忘れたいわけじゃない。振り返ることをしなかっただけだ。右の手は無意識のうち

にとうに癒えたはずの傷を探っていた。傷跡さえもないはずなのに。

 軽く熱を帯びて疼くような、感覚。

 雨のせいだ、きっと。

 窓枠の向こうの空は暗く、絶え間なく幾千、幾万もの雨粒を投げかけている。

 雨が降っている。

 雨は止まない。

 

It was rainy,and it’s so again.

 

                              written by 風凪

 

「雨が降る度にこれじゃあ、いつまで経っても着くトコ着かないんでないのぉ?」

 止む気配もない空模様に悟浄はげんなりと漏らす。それに対し八戒は軽く笑って見

せた。

「まあ、コレばっかりは仕方ありませんから。」

「俺は別にこれッくらいの雨どーってことないんだけどさっ。」

 悟空は早くも部屋に据えられたベッドの内の一つに腰掛けて投げやりに言い放った。

本来ならば今日は山を下った先にあるちょっとした街まで行く予定だったのだが、不

慮の雨のために山奥の一軒宿で足止めを食らっているのだ。街の宿での食事を期待し

ていた悟空としては、がーっかり、というわけである。

 そんな悟空の“がっかり状態”を察して悟浄はにっと人の悪い笑みを浮かべた。

「まぁーあれだな、なんとかは風邪引かないって言うし?」

 反応時間0.三秒、悟空は最速でがばと顔を上げた。

「誰が馬鹿だよ、だーれーが!!」

「あ、俺そぉんなこと言ったっけ?な、聞いた?八戒。」

「いや、僕に振られても」

「はぐらかすなってば!!大体いっつもすぐに人のこと馬鹿だの猿だのいい加減にし

  ろよな!」

 その言を受けふいに悟浄は神妙な面もちを作り、ちっちっちっと人差し指を動かし

た。

「なんだよ?」

「俺は馬鹿とも猿とも言ってないぞ。」

「嘘!」

「まあ、人の話は最後まで聞けって」

 そこで悟浄は再びにぃッと笑った。

「・・・馬鹿猿だ。」

 一瞬、緊迫した間があった。

「・・・・・・もー、頭来た!この性悪エロ河童!!」

「かーっ、駄目だねこのお子様は。ボキャブラリーが少なくて!」

「なんだよ、悟浄だっていっつもおんなじじゃんか!」

「事実はいくら並べたっていいんだよ、この馬鹿猿!」

「だったらこっちだって本当のことだからな、エロ河童!」

 お約束の不毛な言い争いだ。終わるのを待っていた日には弥勒菩薩が光臨してしま

うかもしれない。

「二人ともいい加減にしないと」

 いつもならこの辺りで、と八戒は三蔵の様子を伺う。だが窓辺に立つ三蔵は銃もハ

リセンも手にしてはいなかった。それどころか心ここに有らずと言った感じだ。珍し

いこともあるなとこの際後ろの二人の件は黙殺することにする。

「どうかしましたか、三蔵?」

 声をかけたそのとき、顔を上げた三蔵とまともに視線がぶつかった。無防備な仕草

だ。本当に珍しいこともあるものだ。しかしそれも一瞬のこと、すぐにそこにはいつ

もの表情が戻った。

「いや、なんでもない。」

「・・・・・・それならいいんですけど。」

 で、と三蔵はようやく悟空と悟浄に目を向ける。

「また懲りずにやってるのか?」

「はは、あの二人の場合アレも一種のコニュミケーションとでも言いますか。」

 八戒はこの次に何が起こるか予想できるような・・・いや、完全に分かり切ってい

たが敢えて止めはしなかった。

「こぉの馬鹿猿馬鹿猿馬鹿猿!」

「エロ河童エロ河童エロ」

 がぁん、と凄まじい音響に悟空の台詞は遮られた。

 二人は唐突に黙り込みまじまじと顔を見合わせた。見合わせたお互いの顔の上を髪

の毛がぱらぱらと落ちていく。ほとんど額を接する距離にいた二人の間を銃弾が駆け

抜けたのだ。

 申し合わせたように脇を見ると、古びた土壁で真新しい弾痕が煙を上げている。

 続いてくるりと逆を振り返ればそこには銃を片手に三蔵が立っていた。

「おまえら、その減らず口今すぐふさげ。・・・・・・それとも別の場所で思う存分

  続けるか?」

 小銃片手にそう言う。

 相変わらず我関せずといった位置から八戒がこうコメントした。

「別の場所って・・・あの世って事ですか?それ、三蔵が言うとシャレになってませ

  んよ。」

 本当に言葉通りのことをやりかねないのがこの人物の怖ろしいところだ。それは勿

論、その言葉を向けられた当の本人たちもよく分かっていた。

 今の今までつかみ合いをしていたその手を向かい合ったまましっかりと握り合う。

「なぁ、三蔵今のかなり危なかったんだけど・・・・・・。」

「もー、三蔵様ってばカゲキなんだからっ。」

 最後の悟浄の台詞が効いた。

「おまえら・・・・・・死ね」

「うわーなんで俺までっ!」

 銃口が再び火を噴いた。

                                     

(うぜぇんだよ)

 捨てたいこともある。

 忘れたくないこともある。

(大概どっちもついてまわるんだ)

 進むことを止めない限り。

 生きていればずっと。

(うざってぇ・・・)

 眠りの淵のぎりぎりの場所で意識は踏み止まっていた。

 雨の音が、耳について離れない。

 

 いつの間にか、雨は止んでいた。しかし夜明けまでにはまだ随分とあるらしい。窓

の向こうには数時間前の天候が嘘のように星空が広がっていた。

 三蔵はベッドの上に軽く身を起こした。

 衣擦れの音が僅かながらも静かな部屋に響いた。

 手慰みにと煙草を探って、空のパッケージに行き当たる。寝る前に吸ったのが最後

の一本だったらしい。

 最近本数が増えた、とは八戒の指摘だったか。

(何かとイラツクことが多いもんでな)

 そう答えた。

「全くだぜ」

 舌打ちとともに空のパッケージを握り潰した。

 くしゃ、という音の直後、

「眠れませんか。」

 声がかけられた。

「・・・・・・別に。」

 隣のベッドからかけられた声に三蔵は素っ気なく返した。軽く笑う気配があって、

八戒は続ける。

「雨、すっかり止みましたね。」

「ああ」

 今だパッケージを握りしめたままの右手。

 星の輝きがしんしんと音になりそうなほどの静寂。

「なにか、ありましたか?昼間もぼうっとしてました。」

 三蔵は再び舌打ちした。

「なんでもねえよ。」

 察しの良すぎる男というのも時として厄介だ。

 言い終わるのとほぼ同時にベッドから立ち上がる。

「何処へ?」

「下行って水でも貰ってくる。」

「気を付けて。」

 暫く戻ってこないつもりなのも見通されているようだ。三蔵は背中に視線を感じな

がら部屋を後にした。

 

 雨の降る度に思い出を重ねて。

 思い出したくもないことばかりが増えていく。それでいてきっと忘れない。忘れた

くはない。

ーお前をこの手で殺す為だ。

 朱泱。

 この手で終わらせようと思った。

 義理だとか、ましてや親切でもない。それが、自分のけじめだと思った。それだけ

だ。

 既に雨は上がっていた。

 札に全てを奪われたはずの瞬間。

 確かに取り戻していた。

 見上げた視線と、銃口に添えられた手は、あんたの意志だったんだろう。

 もう雨は降っていなかった。

 それでも、と思う。

 あの時も雨が降っていたなら、そうだったならきっと・・・・・・。

 

 三蔵ははっと暗闇に目を凝らした。

「何だ?」

 張りつめたものが全身を駆けめぐった。感覚が冴えていく。動くものの気配があっ

た。動物の類ではない。意志を持って、こちらを伺う何かの気配だ。また新たな刺客

か。

(めんどくせぇ)

 三蔵は素早い動作でS&Wの銃身を起こし、周囲の暗闇に向かって言った。

「おい、そこでちょろちょろしてないで出てきたらどうだ?バレバレだぜ。」

 駄目か。

 そう思わせる間があって、やがて道を隔てて正面の茂みががさりと鳴った。

「ーそこか。」

 耳の捉えた音に従って視線を投げかけたその瞬間、キンと鋭い耳鳴りが走った。頭

が急な頭痛を訴える。

「なんだってんだ」 

 重く、のしかかる感覚を振り切って顔を上げる。

 そこに、敵が居るのだ。

「な、に・・・!?」

 甲高い耳鳴りの続く中、重圧を振り切って上げた目線の先に

ーそんなはずはない

 いた

ー嘘だ

 信じられるはずもない

ー確かにこの手で

 その姿は。

 混濁する意志とは裏腹に、そのことで自分自身確認するかのように、無意識のうち

にその名を口にしていた。

「・・・・・・朱泱」

 雨上がりのあの日の光景が脳裏を駆ける。

 今自分の目にしているものは記憶と矛盾している。

 それでも。

 朱泱は、悪夢の再会の時の姿そのままにーおぞましい呪符に身を包んで、何処か生

気のない様子で立っていた。

 その姿を確かめると同時に更に頭にかかる重みが増す。耳鳴りと重圧に低く呻き声

が洩れた。

 必死で顔を上げる三蔵の姿を、今初めて目にしたように朱泱がゆっくりと口を開い

た。濁った双眼がどろりと向けられた。発せられたのは重く澱んだ声だった。

「おまえなら」

 なんだ、と先を促そうとしたがそれは言葉にはならなかった。

「・・・・・・おまえなら」

 聞いては、いけない気がした。しかし今の三蔵に抵抗の術はなかった。耳鳴りがひ

どい。感覚を狂わせるほどの苦痛の中で、顔を上げているのが限界だった。

「救えると思った。それを」

 朱泱の声は道路の向こうという距離感を無視して、直接頭に響いてくるようだった。

耳鳴りと重圧で不確かになっていく感覚の中で、その淡々とした声だけが響いていた。

「それなのに」

 聞きたくない。

 朱泱の唇が、最後の一言を形作っていく。

ーお、ま、え、が

「おまえが殺したんだ。」

 三蔵は無理矢理に吐き出した。

「なにを・・・・・・っ」

 しかしそれさえも満足な声にはならなかった。

 打ちのめされそうな重圧に地面を踏みしめている感覚さえ危うかった。朱泱の姿だ

けははっきりと見える。

「おまえが、殺した」

 恨みの言葉だけを。

「・・・・・・くっ」

 だったらどうすればよかった。

 何をするべきかなんて何も分からなかった。

 これ以上何を。

 そのときすぐ横で、ざっと地面の鳴る音がした。

 幾分耳鳴りが遠のく。

 それを機に三蔵は不可視の強制力を振り切って無理矢理に朱泱から目線を引き剥が

した。そして地面の鳴ったその場所には。

(八戒?)

 呆然とした表情で膝をつく彼が居た。その視線の先にはヤツが。

 だが、八戒の口から漏れたのは別の人物の名だった。

「か、なん・・・・・・?」

 途端に三蔵の頭の中に閃いたものがあった。

「・・・そう、いうこと、か・・・」

 八戒の目線を追っても自分には朱泱の姿しか見えないだろう。

 相変わらず続く感覚の狂いを抑制しながら、左手に冷たい銃把があることを確認す

る。

「救えた、のに」

 耳鳴り。

「おまえなら」

 重圧。

「殺した」

 目眩。  

「殺したんだ」

 そうだ、殺したんだよ。

 それが。

 どうしたってんだ。

「うるせえ!!」

 ごう、と銃声が重い感覚を突き破った。

 五感に自由が戻り、夜の静寂が辺りに広がる。

 銃口の先を目で追ってもそこには何者の姿もなかった。付近にそれらしき気配も感

じられない。

「・・・逃げられたか。」

 その言葉に答えるように八戒が立ち上がった。

「すみません、一応どちらかと言えば助けに来たつもりだったんですけど。」

 三蔵は特に何も返さない。ただ、ふんと短く吐き捨てた。

「幻術の一種でしょうか。」

「恐らくな。」

「どうします、追いますか?」

 三蔵がその問いに返そうとしたそのとき、ふいに背後が騒がしくなった。

「このヤロー、夜中にわざわざたたき起こしといて何にも無かったらどうしてくれん

  だよ、え?」

「んなコト無いって、絶対・・・ほら、三蔵と八戒もでてんじゃん!!」

 今し方宿の戸口を出てきた悟浄が、悟空の指さす二人の姿に眠たげな目元をこすっ

た。

「で、お揃いで何があったわけ?てかもう片付いた?」

「えー、終わっちゃったの?つまんねー。」

 三蔵の手元でカチャリと不穏な音がする。

「コイツ、何だと思ってやがる。」

「まあ、落ち着いて。」

 八戒が止めたおかげと言うよりは三蔵の気分だろうが、今回は血を見ずにすみそう

だった。

「で、マジなんなのよ?」

「いつものご歓迎なんですけど、今回はちょっと逃げられちゃいまして。」

「そういうことだ。」

 それだけ言うと、三蔵は宿に向かって歩き始めた。

「三蔵どうすんだよ?」

 悟空が小走りでそれについて行く。

「決まってんだろ、寝る。」

「何があったんだよ、なあ」

「うるせぇ」

 そのまま二人の姿は戸口の奥に消えていった。悟浄と八戒はその背を見送るように

立っていた。

「どうしたんだよ、三蔵は。」

「んーまあ、今回の敵はちょっと厄介で・・・・・・。」

「厄介?」

 八戒は考え込むように顎に手を当てた。

「三蔵にはヤツが誰に見えたんでしょう?」

 悟浄は煙草のパッケージを探る手を思わず止めた。

「・・・はぁ?」

                                       

 ウウウ、と低いジープのエンジン音だけが響く。時折道の悪い箇所でがたんと車体

が揺れる。それ以外はとても静かだった。あまり常ならぬ状況と言えた。

「なぁ」

 悟浄はこそこそと前でハンドルを握る八戒の肩をつつく。その声はエンジン音に紛

れるほどの物だ。

「あの二人、なんかあったわけ?」

 助手席の三蔵はいつもにもまして不機嫌な表情だ。そして後部座席の悟空はといえ

ばいつものように悟浄に突っかかるでもなくしゅんと肩を落として黙り込んでいる。

「悟空があれからしつこく事情を尋ねたようで・・・・・・」

「ははあなるほどね。何かキツイこと言われたわけね。」

「その様です。」

 悟浄はちらりと視線で三蔵を示す。

「で、こっちはこっちで引っ込みつかないわけね。」

「まぁ・・・そうです。」

 ぎっと音の出そうな勢いで三蔵が振り返る。

「何か言ったか。」

「なんでもねーよ」

 いつもならおどけて答えてみせるところだが、今日ばかりはよした方がいいだろう。

悟浄はそう判断した。昨夜の話は八戒から聞いていた。

 相手の記憶をその姿に写し取る敵。

 確かに厄介だ。

 三蔵が神経質になるのも理解できる。

「そんで昨日の敵さんはもう襲ってくる気はないのかね。」

 悟浄の軽い一言に同じように軽く八戒は答える。

「そうでもないですよ。」

「言い切ったな。」

「ええ」

 八戒は相変わらずの口調で、しかしはっきりと断定した。

「さっきから同じトコぐるぐる回ってますから。」

 そこは森の中で、どちらにしても単調な木ばかりの景色が続いていたのだが運転し

ていた八戒には分かったようだった。

「幻術がお得意ってわけ?」

「あ」

 八戒はブレーキを大きく踏み込んだ。木の間隔が急に狭まり車の通行を妨げている。

振り返れば通ってきたはずの道も同じになっていた。

「・・・・・・決定的だな。」

「どうします、三蔵。」

「仕方ねーだろ。」

 三蔵はもうドアに手をかけていた。

「こちらから敵さんをお探しすると、そういうことですね。」

 車を降りると八戒はボンネットを軽く叩いた。

「幻術がかかってることを考えると当てにならないかもしれないですが、一応ジープ

  は目印に残っておいてくださいね。」

 そうしておいてのろのろとジープから降りた悟空を呼んだ。

「悟空、じゃあ僕たちはこっちの方を当たりましょう。」

「え?・・・うん、分かった。」

 三蔵と悟浄は呆気にとられた様子だ。あまり良い手分けの仕方とは言えないと思っ

たのだが。八戒はそれを目にしてぽんと悟浄の肩を叩き耳元で言った。

「僕は悟空を元気づけますから。そちらはお願いしますね。」

「げっ・・・そういうハナシ?」

  思わず声に出しておいて聞こえていなかったかと三蔵を振り返る。

「じゃ」

 しばらく離れてから思い出したように再び八戒が口を開く。

「お二人ともくれぐれも単独行動はしないでくださいね!」

「マジかよ・・・。」

 ぶつぶつと漏らす悟浄に三蔵が問う。

「何か不満か?」

「いーえ、別に、ぜっんぜん!!」

 軽く両手を上げて悟浄は投げやりに言った。三蔵はその答えにくるりと背を向けた。

「そうか。俺は不満だ。」

 悟浄は返す言葉を失って舌打ちした。

                                       

 特に会話もなく、悟浄は煙草のパッケージを取り出した。随分と軽くなってしまっ

たそれを傾けると、取り出し口の方に残りの三本が転がってきた。予定よりも街に着

くのが遅れたせいでこれが最後だ。その内の一本をいつもより幾分慎重に口元に運ん

でからふと気付いた。

 わざとであろう、少し離れて前を行く三蔵に足を早めて並ぶ。丁度三蔵は袂を探っ

てそこにあるべき物がない事を思い出してか顔をしかめたところだった。

 その手元に悟浄はハイライトの青いラベルを差し出してみた。結果は見えているよ

うな気もするが。

「・・・喫うか?」

 パシッと軽い手応え。

「いらん。」

 そのまままた三歩先を歩き出す。

「かっわいくねー。」

 本人の耳には入らないように毒づいてその距離を縮めるべく後を追う。一度くわえ

た煙草は箱に戻してしまっていた。だが思い直してわざわざ追いつくことはせず、悟

浄は三蔵の背後の位置そのままから問いかける。その方がいいような気がした。

「おまえさぁーサルに何言ったか知らねぇけどありゃあかなり落ち込んでたぜ?」

 もしくは怒って、いたのかもしれない。そこまでは分かりはしないが。ただどちら

にしてもかなり珍しいことなのは確かだった。逆に言えば、それ程彼にとって譲れな

い一線だったのだろう。

「・・・・・・。」

 三蔵は黙って歩き続けていた。

「まぁ、いろいろ話しにくいことなんだろうけどよ。」

 大体の事情は昨夜の内に八戒から聞いていた。鏡のようだ、と八戒は表現した。心

の奥を容赦なく暴き出していく。逃れようもない現実を突きつける。或いはそれこそ

が幻なのか。なににしろ、

(ちょーやっかいな事にかわりはねぇわな。)

というのが悟浄の感想だった。ある程度年を重ねてくれば誰しも傷の一つや二つ隠し

持っているものだ。自分にも心当たりがあるだけにそれがどれ程質の悪いことかは容

易に想像できた。三蔵が何を見たかまでは知る由もなかったが、簡単に話せることで

はないというのは分かる。

 それでも。

 道なき道を進む二人の足音だけがその場にある唯一の音だった。しばらくはその不

自然なまでの静寂に身を委ねて、ややあって悟浄は再び口を開いた。

 それでも、と。

「悟空がそういうヤツなんだって事はおまえが一番良く知ってんだろ?」

 手の内は全て見せあって、そうして分かりあって。

 それを馴れ合いとかそういうふうに考えるのもアリだろう。甘いとも言えるだろう。

それでも、きれい事にしかならないのかもしれないけれど、一番ストレートなやり方

で。

 そうやって、つながっていく。

 そういうつよいものを、求めている。

 三蔵の背中が、一瞬止まった。

「ー余計なお世話なんだよ。」

 しかし台詞の内容とは裏腹に、そこにあまり険のないことを悟浄は敏感にかぎとる。

「いや、知ってんならいいんだけどよ。」

「当然だ。」

 とりつくしまもない返事はいつものことで、それ故にそちらの方はもう問題はない

と見て良さそうだった。そして、残る問題は・・・・・・。

「でもよぉ、結局敵の正体は何なんだ?」

「それが分からねぇから苦労してるんだろーが。」

 悟浄はぐっと息を呑んだ。

「そんなことは知ってんだよ!もっとこう推測なりなんなり建設的な意見の交換を期

  待してる訳よ、俺は!」

 確かに自分にも問題は多々あると思うが、この目の前の鬼畜生臭坊主はそれ以上だ。

間違いない。まっとうな会話すら望めやしない。

「知るか。」

「あーのーなぁーっ、少しはッ・・・!?」

 唐突に悟浄の言葉が途切れる。

「大声上げすぎて頭に血が上ったか?」

「ちがっ・・・」

 何とか答えて、次の瞬間揺らいだ上体を手近な木の幹で支える。それとほとんど同

時に、三蔵の身にも異変が起こっていた。

 思考を切り裂く耳鳴りと目眩。

「なんなんだ、これは・・・?」

 しかしそう言った悟浄の声は耳鳴りの向こうに遠ざかりつつある。伝わるかどうか

分からないが三蔵は短く吐き出した。

「ヤツが来た・・・!!」

(ヤツ・・・?これが)

 三蔵の答えはかろうじて耳に届いたが、それだけで後は強い圧迫感に五感の一切を

閉ざされ、隣にあるはずのその存在さえ感じられない。それどころか平衡感覚まで・

・・・・・悟浄には今自分がちゃんと立っているのかどうかも定かではなかった。

 そんな状態がどれ程続いただろうか。

 ふ、と。

 悟浄はほとんど何かに突き動かされるようにして、顔を上げた。混沌とした感覚世

界の中で、唯一の存在がそこにある、と。訴えかける。呼ぶ。いけない。感じる。呼

ぶ。駄目だ。逆らえない。知っているのに。叫んでいる。呼ぶ。呼ぶ。呼ぶ。無形の

力に、屈する。

 深い紅の瞳が、その姿を捉えわずかに見開かれた。だからー見てはいけなかった。

 悟浄の口から、記憶の底に封じたはずの呟きが漏れた。

 優しい、痛みとともに。

「かあさん・・・」

 

「悟空、元気がないですね?」

 何も察していないかのように、八戒はさらりとそう口にした。悟空はびくりと肩を

揺らす。過敏になっているのだろう。

「あ、うんーごめん。」

 八戒は笑顔を崩さず言う。

「別に謝る事じゃありませんよ。」

「うん・・・・・・。」

 肩を落とす悟空を、八戒はそれでも笑顔で見つめていた。

「昨夜のことですか。」

「うん。」

「三蔵は何も教えてくれなかったんですね。」

「うん。」

 不意に悟空がぴたりと立ち止まった。八戒は何も言わず振り返る。

「なぁっ」

 悟空は顔を上げる。

「俺ってそんなにわがままかなあッ?」

 言葉を撰ぶゆとりもなく、悟空は一度に言い切った。

「大切だから、俺には三蔵が一番だからっ、だから全部教えて欲しいって、隠し事な

  んかして欲しくないって、そういのって、俺ー」

  言葉に詰まる悟空の頭に、八戒はぽんと優しく手のひらを載せた。

「そうですね、やっぱり、全然我が儘じゃないってことにはならないかもしれません

  ね。」

 言葉にしなくても伝わるものを、人の心は知っているから。

 けれど。

 また俯きそうな悟空に、八戒は重ねて言う。

「でも、許される我が儘っていうのはあると思いますよ?」

 え、と悟空は小さく問い返した。

「我が儘でも、いいんじゃないですか?三蔵のことが大事だから、なんでしょう?」

「う・・・うん!」

 それだけは、自信を持って頷ける。あの日、あのとき、彼がやってきてくれた。星

の導きを、ただそのときがやってくるのを、待っていた。いつともしれないそのとき

を、待っていた。そして、彼が現れた。その瞬間に、全てが始まった。出会いも、喜

びも悲しみも、全部そこに繋がっている。だから。

 八戒はもう一度繰り返した。

「だったら、いいんですよ。ちょっとくらい我が儘でも。ただ・・・そう、待つこと

  は必要かもしれませんね。」

「待つ?」

「そうです。無理矢理に嫌々教えて貰っても嬉しくないでしょう?」

「うん、まあ・・・。」

「我が儘にも駆け引きは必要ってトコでしょうかね」

 訳の分からない台詞の後に、続けて八戒はそれに、と冗談めかして人差し指を立て

て見せた。

「大体あの人がそうすんなり聞かれたこと答えるわけありませんしね。」

「それはないな。確かに。絶対ないな。」

 悟空も考えるまでもなく同意した。

「そういうことです。あなたが気に病む事なんて何もありませんよ。」

「そっかな。」

 悟空の声に明るい色が戻ってくる。

「そうですよ。」

「うん、そーだな!」

 気合い入れて捜すぞ、と悟空は立ち止まっている八戒を追い抜いた。それから思い

出して、足は止めずに声だけで問う。

「んでも結局敵ってどういうヤツなわけ?その、三蔵がどうとか細かいことは抜きに

  してさ。」

「そうですね。」

 昨日悟浄にした説明を思い返し、どうすればより分かり易いかと八戒はしばし考え

る。それから慎重に説明を始めた。

「幻術の一種でしょうが・・・誰か、相手にとって攻撃するのが躊躇われるような人

  物の姿をとってあらわれるんです。」

「例えば?」

 八戒はまたしばらく言葉をとぎらせた。

「うーん、大切な人とか・・・後は負い目のある人とか、失ってしまった人とか・・

  ・いろいろ考えられるでしょうけど・・・・・・。そうですね、トラウマとでも言

  いますか、そういうものを見せられるんです。」

「分かってても駄目なんだ?」

「でしょうね・・・単純に視覚に訴える類の幻術ではないみたいですから。」

 もっと、心の深いところに働きかけ認識能力さえ奪っていく。そういう力だった。

 納得した様子で歩き続ける悟空が一瞬暗い表情を過ぎらせて、でも、と言った。

「それだったら、俺は平気だよな・・・。」

「え?」

 問い返す八戒に、悟空は振り返って当たり前じゃんと笑った。

「だって、俺昔のこととか全然覚えてないし。今大事なものって言ったら三蔵とか八

  戒とか」

 そこで一瞬躊躇ったようだったが続ける。

「悟浄じゃん。だったら目の前に本物が居るんだから大丈夫だよ。」

 しかし八戒はそれをあっさり肯定することは出来なかった。

「でも悟空」

「待って。」

 悟空が八戒の言葉を遮った。

「あっちで、何か変な感じがする!」

 八戒は余計な反問はせず、駆け出す悟空の後を追った。

「何だ、これっ!?」

 どれ程走っただろうか、悟空は不自然に霧と言おうか靄と言おうかといったものの

かかった場所を目前にして足を止めた。八戒が少し遅れてやってくる。

「どうしました、悟空。」

「いや、これ以上進めなくて。」

 言って悟空はびたっと何もない中に手のひらを張り付けて見せた。八戒はぱちぱち

と手を叩く。

「うわーパントマイムみたい。」

「じゃなくて!」

 八戒も同じようにぴたりと宙に手を当てた。

「結界の一種でしょうかね・・・。多分、範囲を限定することで幻術の効果を強めて

  いるんでしょうけど。」

 中に誰が居る、とは敢えて言わない。

「どう?」

 悟空に見上げられて八戒は頷く。

「ごく弱いものですから内側に気を送り込めば破れるかも・・・・・・やってみます

  けど、不用意に踏み込んじゃいけませんよ。」

 そう言い置いて八戒は両の手で結界に触れると、静かに目を閉じた。手のひらから

見えざる感覚の触手が広がり、結界のほころびを見つけ、侵入する。網目のように結

界の内側を覆い尽くし、気の通り道を確保していく。八戒は手のひらでその全てを感

じ取り、目を開いた。後は。

「ーはッ!」

 強い光が結界の内側に閃いた。

 悟空はその眩しさに思わず右の手をかざして、わずかな影の中に、求める姿を見つ

ける。

(三蔵!!)

 今、その上体が揺らいで・・・・・・。

 考えるよりも既に足は地面を蹴っていた。

「悟空!」

 制止しようとする八戒に投げかける。

「言っただろ、俺は平気!!」

 光と靄の覆う幻想的な場に飛び込む。途端、息が詰まる。恍惚感にも似た、圧迫が。

(何)

 三蔵の姿が、見えない。

 他には何もないはずなのに。

 過去なんて知らない。

 何も覚えてはいない。

 確かに生きてきた。

 そんな証のすべてを失って、遠く。

 意味を。

 しるしを。

 生きてきたのに、何も残りはしなかった。

 不安。

 それでも、何も覚えてはいなかった、はずなのに。

 ならば、何故。

「誰」

 見開いた瞳に、鋭く焼き付く人影。

 声に出して問わずとも・・・・・・知っていた。

(どうして)

 太陽のようにこぼれる長い髪。

 名を呼ばれた記憶。

 分からない。

 分からないのに、知っている。

 記憶も、何もなくても、この魂が知っている。

 分からないのに、呼んでいる。

 求めている。

 悟空は、優しい幻に全てを委ねた。自覚もないままに、止めどなく涙が溢れていた。

分からなくても良かった。記憶ではない、感覚の訴える懐かしさで知っていた。

 強いつながり。

 守りたかった。

 この手をすりぬけて、失われてしまったもの。

 戻ってくるのなら、それで良かった。

(同じなんだ)

 重なる面影。

 何と何が同じなのか、分からぬままただ悟空はそう思った。何もかも繋がっていた。

 遠い、昔からの約束だった。

 忘れてなんて、いなかった。

「よかった・・・よかった・・・・・・!」

 悟空は頬をつたう涙を拭うこともせず、膝をついた姿勢からただ、その人を見上げ

ていた。

 たとえその名を呼べなくても。

「・・・・・・ありがとう」

 そして、差し伸べる手は。

 

「ねぇ、どうして生きてるの?」

 それはあの時あなたが俺を殺さなかったからでしょう、母さん。

 答えは声にならなかった。

(ちがうな)

 重い思考で悟浄は考え直す。幻に犯されていく意識の表面から引き剥がされていく

かのように、頭の芯は妙に冷たくなっていた。

(殺せなかったからか)

 無機質だった母の顔に、徐々に憎悪とも苦痛ともしれない歪みが広がっていく。涙

を流し、叫んでいる。

 だったら。

 いーんじゃねぇの?

「ねえ、どうして?」

 いらないなら、

「ねえ?」

 消しちまえばいいだろ。

「どうしてッ・・・どうしてなのよッ!!」

 そんなにあなたが泣くのなら。

 自分が消えることで、その涙が止まるなら。

(俺は、それでもよかったんだ・・・・・・。)

 ふらり、と悟浄は母の姿に向かって踏み出していた。悲しみも痛みも終わらせよう。

それでいい。

 冷たいだけの記憶の中で、それでも求めていたのは。

 本当は、ただ。

(母さん、あなたに)

 そのとき、誰かが背後から強く悟浄の肩を引き寄せた。

「悟浄!!」

 ついで、頬の辺りでパシンと甲高い音が鳴った。

「・・・え?」

 一瞬のタイムラグがあって、悟浄は眼前に八戒の姿を認める。更に間があって、左

の頬に熱を感じた。まだ目眩の残る頭を上げ、何とか八戒を見上げる。

「大丈夫ですか?」

「てめ・・・」

 ぶったな、とは続けられなかった。

 ともすればまた幻覚に取り込まれる。一度は遠のいた重圧が再び襲いかかってくる。

 このままでは。

 悟浄は正気の失われない内にと、がっと強く八戒の手首を掴んだ。

「おまえ、なんで平気なんだよ?」

「平気じゃないですよ、あんまり。」

 言われてみると八戒の顔色もあまりよいとは言えなかった。しかしそれは幻覚のた

めではなく・・・・・・。

「ッ、そうゆーことかよ」

 悟浄は舌打ちした。

 差し出された八戒の腕には大きく一筋の切り傷が走っていた。溢れる血の勢いが傷

の程度を物語っている。幻よりも強い、現実の感覚が、かろうじて彼に意識を保たせ

ているのだ。

「俺にも貸せ。」

 悟浄は準備のいい八戒らしい、小振りなナイフをほとんど奪い取るようにして手中

に収めると、躊躇うことなく左腕の、肩に近い位置に突き立てた。

「ってぇ・・・」

 焼けるような感覚が左半身を駆けめぐる。しかしその痛みと引き替えに頭は霧が晴

れる様にはっきりしていく。ある程度以上意識に変わりがなくなるとまた勢いよくナ

イフを引き抜いた。動悸に従って鮮血が溢れ出す。意識はまた少し冴えてきた。

「また派手にやりましたねぇ。」

「うるせーこれっくらいで丁度いんだよ。」

「やっぱり煩悩が多いからでしょうかね。」

「かもな」

 ふっと短く息を吐き出して、悟浄はそれまで母の幻の見えていた位置を振り返る。

だがそこには靄が立ちこめるばかりで誰の姿もない。

 見つめている内にまた軽い目眩を覚えて、悟浄は首を振った。

「で、敵はどーしたんだ?」

「それがですね」

 八戒は困ったことに、と溜息をついた。

「幻から解放されたらされたで、今度は敵の姿が見えなくなっちゃうみたいなんです。」

「何ィ!?」

 叫んだ途端、今度は強い目眩に悟浄はよろめいた。その肩を八戒が支える。

「あんまり大声上げると貧血起こしますよ?」

 右の手で押さえ込んだ傷からはまだ出血が続いている。   

「どっちにしろ貧血だろ・・・。立てるから離せ。クソッ」

 悟浄は悪態と供にもう一度身体を引き起こす。

「どうすりゃいいんだよ。」

「どうしましょうねえ?」

 八戒も同意するのだが。

「・・・・・・緊張感ねえ・・・・・。」

                                       

 三蔵は、頬に掌に冷たい物を感じた。

 ポツン、ポツン。

 やがて、絶え間ない流れに変化していく。

 冷たく、それでいて優しく。

 糸のように、飴細工のように、繊細に身を包んでいく雨。

(もしもあの時も雨だったなら)

 願いを叶えるように、雨が降っている。それさえも幻かもしれないのだが、それで

も三蔵は確かにその身に雨を感じていた。

 雨の向こうに朱泱が立っている。

 繰り返している。

 おまえなら、と。

(無理なんだ)

 この手で守れるものなんて、何一つ無かった。

 たった一つのものさえ失ってしまったあの日も雨が降っていた。あの人は何も責め

ない。誰も責めない。守れなかった事じゃない。守れなかった自分が悔やまれた。許

さないのは自分自身だ。

「おまえなら、救えると思ったの、に」

 そう言い続ける朱泱の顔にあるのは憎悪か、それとも。

 三蔵は霞む視界でなんとか朱泱の姿を捉える。恍惚とした目眩が認識を千々に切り

裂いていく。思考さえ混沌としていく。

 距離感もそこにはなく、雨と朱泱の姿だけが瞼に焼きつく。

 遠く、近く。

「殺した」

 大きく、小さく。

「おまえが、殺した」

 だったら、今更俺に何が出来る。

 何を求める。

 何も出来はしないのに。

 撰んだつもりだった。

 一番の結果を。

(他に何があった)

 三蔵は朱泱に向かって言った。

「言ってみろよ」

 苦しい息の下で、つよく、言葉をとぎらせぬよう。

「どうすればよかったんだ!?」

 朱泱の声が、止まった。

 さあっと雨の音が二人の間を支配した。

 三蔵は、朱泱の口元の動きを追った。声はなかった。

 雨に打たれる三蔵の顔が、ふっとゆるんだ。

(そんなこと)

 それで、いいのなら。

 朱泱はもう一度繰り返す。

「一緒に」

 三蔵は銃の所在を確かめる。

 何も頭にはなかった。

 仲間も。

 使命も。

 己さえも。

 ただ、あのときどうすれば良かったのか、それだけだった。

ー力なんて無かった。

 安全装置を外す。

ーいつまでもあの人のそばで穏やかに暮らしていくのだと思っていた。

 弾倉が音も立てずゆっくりと回転した。

ーいつか失われていくものがあることなんて少しも考えなかった。

(これで満足か)

ー何も守れなかった。 

 朱泱は何も言わなかった。

ーそれでも生きていく?

 銃を握る手がのろのろと引き上げられ、頭の横まで。銃口は、他でもない三蔵自身

の頭に向けられていた。

 何も考えられなかった。

 何が大事かなんて。

(大切なこと?)

 忘れている。

 何を・・・誰を。

 朱泱じゃない。

(これではいけないのか?)

 意識の底をざわりと不安が過ぎる。それでも、銃を握る手は他人のもののようにま

まならない。すでに、引き金には。後は、指の動き一つで何もかも終わる。

 駄目だ。

 思い出さなくてはいけないことがある。

 朱泱じゃない。

 失った誰かじゃない。

 違う。

 一緒に逝くわけにはいかない。

 誰。誰。誰。

 意識のせめぎ合う様子そのままに、トリガーにかかる指が震える。

 そのとき、ざあっと空を切る感覚を肌が伝える。朱泱が札を放ったのだ。三蔵には

それはほとんどスローモーションのように映っていた。その標的は三蔵ではなく、別

の。

 視界にその姿を捉え、三蔵は息を呑んだ。

 どうして忘れていた。

 それだけは、させない。

「悟空!」

 名を呼ぶことが、呪文のように三蔵を幻の束縛から解き放った。

 膝をつき、あらぬ方向を見上げたまま身動き一つしない。無防備な悟空に無数の札

が一斉に飛ぶ。

 三蔵は迷い無く銃を向けた。

 間違えない。

 トリガーを引く相手は。

「すまなかったな。」

 一言だけ言うのなら。

 おまえには俺だったのかもしれないけれど。

 俺にはおまえじゃなかった。

 それだけのことだったんだ。

 だから、せめて。

「もう一度殺してやるから。」

 

 

 

最初から、それ以外にはなかった。

 

 

 

 消えゆく間際、朱泱の顔に苦痛の表情はなかった。

 ただ、優しく。

(ああ、あのときも)

 あのときもそうだった。

 だから、後悔なんてしなくて良かった。

 雨が降っている。

 すべて流して、傷を包み込んで。

 雨が降っている。

 だから。

(今なら)

 朱泱。

 今度は、ちゃんと泣けそうだ・・・・・・。

                                   

「うわ、二人とも何血まみれ・・・?」

 悟空は悟浄と八戒のさんさんたる様子に目を見開いた。

 靄は晴れ、幻覚に苛まれることもなくなっていた。

「うるせ・・・くそ、怒鳴る気もしねぇ。」

 結局悟浄に肩を貸している八戒が言う。

「悟浄のはやり過ぎですよ。」

 顔にかかる髪をけだるい仕草で払って、悟浄はもう一度悟空とその隣で何も言わな

い三蔵に目をやる。そして、見間違いでないことを確認して置いてから口を開いた。

「そっちこそ、何二人して泣いてるんだよ・・・・・・?」

「泣いてなんか・・・って、ええ!?三」

 悟空の台詞はばしんばしんと言う勢いのいい音に遮られた。その直後、悟空と悟浄

は顔を押さえて地面にうずくまった。八戒はというと、要領よく既に三蔵に背を向け

ていた。

「って・・・おまえ、一応怪我人に・・・!!」

「かお・・・かおぶった・・・・・・」

 ふん、と短く言って三蔵はさりげなく涙の余韻を振り払った。

 そこへ八戒が言う。

「結局敵の正体って何だったんですか?」

「さあな。俺も本体を見た訳じゃない。」

 悟浄はまだ熱の引かない顔を上げる。

「へえ?あの幻を攻撃できたわけ?流石、徳の高いお坊様はちがうねえ。」

「言ってろ。」

 三蔵は少し離れた地面に何かを認めて歩き出した。地面から拾い上げたそれをとり

あえず一番近くにいた悟浄に投げてよこす。

「それだ。」

 悟浄は不意のことで危うく落としかけたそれを改めて見る。

 レリーフの施された重厚な金属に縁取られた、それは。

「かがみ・・・・・・?」

「それが正体って事ですか。」

 ほら、と八戒が割れた鏡の中央を指さす。それはどう見ても銃弾によるものだと思

われた。一瞬納得の表情を浮かべて、しかし悟浄は待てよ、と呟いた。

「鏡って・・・生き物じゃないよな?」

「まあ、そうですね。」

「勝手に昨日の宿からここまで移動したりしないよな?」

「当然だな。」

「誰かが道具として使って・・・・・・」

「妖怪の気配とかはないよ。」

「じゃあ・・・・・・」

 八戒が事も無げに言った。

「鏡のお化けとかでしょうかねぇ?」

 答えを聞くや否や悟浄は手にしていた鏡をぶんと音のでそうな勢いで放り投げた。

悟空がその行方を目で追ってああ、と叫ぶ。

「俺まだよく見てないのに!」

 鏡は森の奥深く、音もなく消えた。

「さー、とっとと行こうぜ、な!?」

 悟浄は両手をそれぞれ八戒と悟空の肩に回した。

「あー、もしかして」

「悟浄、まさか怖いんだ?」

「うるせー昔からお化けと一度怒らせた女は手が着けられねえって決まってんだよ!!」

 三蔵はその後についていこうと二三歩進んで、もう一度鏡の飛んでいった方向を振

り返った。

(これで今度こそ終わりだな、朱泱。)

 いや、朱泱は最初から許していた。捨てきれなかったのは弱さ故の後悔だった。守

る強さは手に入れられなくても、心だけは強くあらねばならなかった。

 だから今度こそ。

 もう雨は降っていない。

 雨。

 次の雨の日を、俺は違った気持ちで迎えられるだろうか。

 雨は止んだ。

 後には、癒やされた傷が残った。

                                   

「どうされましたか、これは!?」

「ん?」

 観世音菩薩は見るともなく見ていた本から顔を上げ、問題の品に目をやる。

「ああ、それか。ちょっとした余興に使っただけだ。」

「余興!?しかしッ・・・・・・」

 それ以上は興味もない様子で再び視線を本に落とす。

「いいだろ?鏡の一枚や二枚ケチケチするな。」

 しかし心中には本のことなどひとかけらもない。考えるのは、地上を行く四つの星。

無限の可能性で、未知を行く光を。

 まだまだだ。

 弱い。

 だから強くなれる。

 けれど、まだだ。

 これぐらいでは終わらない。

(もっと俺に見せてみろ)

                                

 あれ程迷っていた森からはすんなりと脱出することが出来た。ジープに戻ってから

ものの十分もかからなかったのだ。

 幾分真面目な面もちで・・・いや、怪我で余裕がないだけかもしれないが、悟浄が

悟空に問いかけた。

「おまえ、何で泣いてたわけ?」

「ああ」

 揶揄の調子がないのを悟ってか悟空も素直に応じた。

「うん、なんか、よく自分でも分からないって言うか覚えてないんだけど、多分過去

  のことを見たんだ。」

「忘れてたって言ってたことか?思い出したのか?」

「いや、はっきり思い出したとかじゃないんだけどさ。ああ、これが俺の大事にして

  たものだったんだなって、分かったんだ。そしたら、なんかさ、泣けてきたんだ。

  うれしくて。」

 悟空は続けた。

「俺はちゃんと生きてたんだって、昔も、今と同じにさ。」

 そこで、ばふっと悟浄の手が悟空の髪を押さえ込んだ。

「おまえ、また泣いてんなよ・・・・・・よかったじゃねえか。」

 悟空は言葉を無くして頷くだけだった。

「おまえはちゃんと生きてるんだ。生きてりゃ今日が昨日になる。」

 三蔵が助手席から振り向かないままにそう声をかけた。

 今の一瞬一瞬が過去になり、足跡になっていく。

 明日は必ず今日になる。

 そうやって誰もが生きていくから。

 時には足跡を振り返る日があってもいい。

 振り返るものがなければ今からつくっていけばいい。

「うん・・・うん」

「ほら、もう泣くなよ、な?」

 悟浄の手の下で悟空はただ三蔵の言葉に頷くだけだった。

「で、悟浄はどうだったんですか?」

「俺か?まあ・・・久々にイイもの見せてもらったぜ?八戒はどーよ?」

「イイもの、ですか・・・。そうですね。僕もイイもの見せてもらったみたいですね。」

「だろ?そういう見方もアリだと思わねえ?三蔵もよ。」

 しばらく間があって、そうだなと小さく返る声があった。

「おい」

 後部座席に愛想のかけらもない言葉と供に手が差し出される。

「なんだよ、この手は?」

「よこせ、煙草。」

 悟浄はじょおっだんじゃねえ、と言い切った。

「一度断っといてそういうこと頼むか普通!?てか頼んでもないぞ!!」

 にぎやかにジープの進む先には、真っ赤に燃える地平があった。

 今、大きく揺れる太陽が沈もうとしている。

 目指す西はまだまだ遠く、旅路はつづくのだった。 

                                                                        -END-

 

 

 

公表順は違いますが、初最遊記作品。

客観的に書こうと目指した結果、八戒除外状態ですねええ。

今は少し彼についても想うところもありますけれどこのときは考えられなかったです

ね。まあ、メインは三蔵様ですからあくまで。

割と原作では朱泱と彼のことに関してはオブラートに表現していたというか、見る方

に考えさせてくれるところがあったので。多分そんなところからこんな話がでてきた

んでしょう。

でもどうなんでしょうね、この人たちは。

いずれ過去を乗り越えるというか過去と一緒に生きていけるようになるのでしょうか。

八戒はくしくも清一色さんによりいいカンジの境地に達したと見えないこともないで

すが。