ただ時の流れるままに、退屈は退屈のままに過ぎ去ってゆくのだと思っていた。何かが変わることを期待することさえ忘れて、もう随分が経っていた。
そんな時だった。
−花曇りの季節。
しかしその穏やかな空気は、むしろ変化のない日常を更に澱ませていくようにしか感じられなかった。人を殺せるほどの退屈があったとしても、天上には死さえ存在せず、ただ、常温のまま脳味噌の溶けていくような感覚だけが。
空気が動いた。
金蝉は開いたドアへと視線を向かわせる。
「クソつまんねェなって顔に書いてあるぜ?」
「・・・・・・余計なお世話だ。」
戸口に立っていたのは観世音菩薩だった。人の退屈を指摘して、その自分は何かしらいつも愉悦を含んだ表情を見せる。そのまま軽口を叩く観世音菩薩に金蝉は無愛想に切り返した。
「冷やかしに来たんなら帰れよ、仕事がのこってんだ。」
しかし意外な言葉が返ってくる。
「ろくに目も通さず、はんこ押してくだけの書類だろ?」
そのまま部屋の外へと向かう。
「ついてこい。恵岸行者が下界で面白いどーぶつを拾ったそうだ。」
「・・・・・・動物?」
怪訝顔で立ち上がった金蝉もその後に続く。
意味ありげに観世音菩薩は笑った。
「ああ。小さいくせに獰猛な、黄金の眼をした動物だ。」
黄金の瞳。
深くは考えなかった。
部屋につくと面倒な挨拶から始めようとする行者を制し、観世音菩薩が言った。
「能書きはいい。下界からあの幼児を連れてきたんだろ?」
「・・・は、東勝神州は傲来国、花果山山頂の精髄たる仙岩より生まれし異端の妖にてございます。」
「岩から生まれた・・・・・・?」
行者の説明に金蝉は眉を寄せる。
面白いじゃないかとでも言いたげに観世音菩薩は唇の端を軽く持ち上げた。
「つまり人間でも妖怪でもない、大地が産んだ生き物さ。」
「それがその・・・かなり凶暴でして」
弁解するように続ける行者の台詞をかき消す声。
金蝉は目を上げる。
「−放せよッ!!いて−ってばッ!ひっぱんなよ!?」
彼、はそこでこれ以上は動いてやるものかというようにぺたりと座り込んだ。幼さの残る面立ちは少年と呼ぶことさえ憚られた。子供だった。
「何か食わせてくれるっつったじゃん!うそつき−っ」
淀んだ空気。
変化も何もないこの空間で、彼だけが真に生を受けているような。
生きる力が全身の隅々まで行き渡っているような強さがあった。
(・・・・・・確かに動物・・・・・・)
自然に向かわせた視線が、ふ、と彼のそれにぶつかった。
「古来より黄金の眼を持つ赤子は吉凶の源とされております故・・・・・・」
意識の隅で行者の言葉を捉え、金蝉はそうだったか、とぼんやり考える。
(不吉、か。)
この世の光を集めて輝く瞳。
退屈なんて知らない。
そういう、色をしている。
そう思った。
行者と観世音菩薩の会話などまるで眼中にない様子で、じっと金蝉を見つめたまま彼は手足にかけられていた鎖を鳴らして立ち上がった。金蝉も目を逸らしはしなかった。
見つめる視線に負けて、金蝉は遂に口を開いた。
「・・・・・・何だよ?」
ただ純粋に輝く瞳で彼は答えた。
「すげーきらきらしてんな。」
伸ばされた小さな手は、それがまるで本当に自然なことのように、流れて落ちる金蝉の髪に触れた。
「たいようみたいだ。」
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あの瞬間から、確かに何かが変わった。
花嵐。
太陽に、再び巡り会った。
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柔らかな光。
怖いくらい澄み切った空から、太陽だけが、清涼たる優しい光を投げかけていた。うつくしく。何にも代え難く。りんと音のしそうなほど空気は澄み渡っていた。冷たい風が吹いていた。それが初めて目にした光景だった。
−ずっと、探していた光。
太陽はあった。きれいな水があった。温かい緑があった。空は何処までも続いていた。何も要らないと思っていた。けれどそんな日々は終わりを告げ、いつの間にか遠く天上まで来ていた。
(俺、あそこにいちゃいけなかったのかな。)
考えると胸の締めつけられるようなその疑問は、けれど口には出さないでいた。花が咲き乱れ、風は暖かいけれど、何故か天上は色彩を失ってしまっているような、そんな印象があった。
「ほら、早く来い!」
手にかけられた鎖をぐいと引かれ、彼は口を開く。
「−放せよッ!!いて−ってばッ!!」
そのまま惰性で、どうにでもなれという気持ちも手伝ってぺたりと座り込んだ。
「何か食わせてくれるっつったじゃん!うそつき−っ」
その部屋には何人か人がいた。だが、巡らせた視線はそのなかでただ一人に釘付けになった。目を離す事なんて出来なかった。モノクロにも似た何処か霞んだ風景の中で、その人物だけは鮮やかに色を持っていた。
そして。
衝動のままに立ち上がる。
「−何だよ?」
ずっと。
「すげーきらきらしてんな。」
さらりと揺れるその人物の長い髪に思わず手を伸ばす。笑顔が漏れた。きっと、ここにならいてもいい、そう感じた。
ずっと探していたあの日の光を、やっと見つけた。
「たいようみたいだ。」
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「こーんぜーん、こっち!こっち来いよッ」
部屋の外からやかましく騒ぎ立てる声がする。
「うっせーな、今忙しいんだよッ」
対して目を通してもいなかった書類の束をばさりと鳴らしてみせる。どうせくだらないことに決まっているのだ。
「なぁーちょっと来てってばッ、けち!」
「誰がけちだ!?」
そう返しながらも結局立ち上がってしまう自分に金蝉は気付く。
あの日から、確かに何かが変わった。
(単に煩くなったつーか忙しくなったつーか。)
けれど、目に映る世界の色まで違ってきたのも本当のことだ。
部屋を出ると悟空が笑顔満面で迎える。
「なんだ?」
「いーからこっちだって!いいもん見つけたの!」
「・・・・・・ったく」
無理矢理手を引かれて、不機嫌な表情はそのままに、しかし半ば諦めの心境でそれに従う。
ふとつないだ手に目をやる。
無邪気に自分を求める小さな掌。
望まれて、ここに立っている実感。
誰かとともに生きていくということ。
それが、世界の色を変えていくのだろうか。
物思いに耽る金蝉の様子を察してか、悟空は立ち止まった。
「どったの?」
ややあって金蝉は軽く首を振った。
「いや・・・・・・何でもない。」
「ふうん?」
納得したようではなかったが、それ以上は追求せず悟空はやや歩調を緩めて再び歩き出した。金蝉もそれについて歩く。
小さな掌の温度。
望むのならば、ここにいようと、いてもいいと、そんなふうに思わせる。
もしも願うなら、彼は変わらずそばにいてくれるだろうか。
廊下が途切れ、視界が開ける。
庭に出たのだ。
強い一陣の風が押し寄せる。
思わず顔を庇うようにあげようとした手を悟空が押さえた。
「んだよ?」
「じゃなくて、見て!」
目を細めて顔を上げ、金蝉は息を呑んだ。
(花嵐。)
桜の大樹から、一度に無数の花びらが舞い、風のままに渦を巻き或いはほどけ、ざわりと鳴る。やがて、最後の空気の流れがふわりと頬をかすめる頃、はらはらと地にこぼれ落ちていった。
「な、すげーだろ!?」
「・・・・・・ああ。」
金蝉は頷いた。
花を、うつくしいと思ったことなど無かった。繰り返し見てきたはずの光景だった。それが今は違う。涙を誘うほどにうつくしく、なにかを伝えてこようとしていた。
風の余韻に流されたはなびらが悟空の髪に引っかかった。
「おい、頭に花ついてるぞ。」
「え、どこ?」
教えてやるより早いとそれを取ってやると悟空が手を伸ばす。
「どうするんだ?」
「いーじゃん、記念にとっとこーと思って。」
「・・・・・・馬鹿ザル。」
「んでだよ!?」
「そう思ったんだよ、いちいちうるさい!」
言い争いながら部屋に引き返していく。
くだらないことに声を張り上げて、走り回って、叱って、頭を下げて、名前を呼んで呼ばれて・・・・・・疲れたりして。
けれど今までよりはずっとマシなのだろう。
はなをうつくしいと思うことが出来るなら。
こんな時がずっと続けばいい。
ささやかな祈りを胸に、金蝉は歩いていた。
-END-
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