+an exceedingly private letter+
〈1〉
「行くぞ。」
「ちょっと待ってください……これでよし、と。」
八戒はしっかりと糊付けした封筒の上から、印字のように正確な斜めクロス―封印を描いた。その印を確認するように眺めて、それから彼は窓際の簡素なデスクに広げた私物をかき集めにかかる。
三蔵はやがてその封筒の正体に思い当たり、半ば呆れたように、おまえも大概律儀だな、と評した。
「性分ですから。」
まとめた他の荷物と手にした封筒を見比べ、結局、何処にもしまうことなく別に持っておくにした。投函を忘れては元も子も無い。
狭い廊下の先からは、既に部屋を出ている二人の声が聞こえてくる。俺が先だって、とかなんとか、また子供じみた理由で戯れているようだ。三蔵が少し眉を寄せる。
「賑やかなヤツらだな。」
「まあ、いつもの事じゃないですか。」
なだめる八戒に三蔵はただ軽く肩をすくめて見せただけだった。この分なら、悟空も悟浄も今回は雷は免れられそうだ。
「先に行ってちゃんと引率しといてください。忘れ物が無いか確認します。」
「……引率……。」
引率、の単語に眉間の皺を深くしながら三蔵は部屋を出ていった。
さて、と部屋を振り返ったところで、一陣の風が窓のカーテンをめくりあげた。抜けるような青空が垣間見える。雲ひとつ無い晴天。
あの日も、こんな空模様だった。三年前のあの日、そして―。
手にした封筒を見て複雑な思いに駆られる。たかが天気。
被害妄想じみた発想で、自らすすんで符号を見つけているのかも知れないけれど。それでもただの偶然とは思えないのだ。
彼、との再会の日は、一点の曇りも無い快晴だった。
彼と初めて出会ったその日と同じように。
〈2〉
それは半年程前のことになる。
ルート上にあったその町は、当初の予定では通過するのみだったのだが、殊の外栄えた様子で、せめて買い出しだけでもという三人の提案を三蔵が渋々飲む形で、立ち寄ることになった。晴天の中、市場は多くの人手で賑わっている。
「あー待って待ってまだ食いモン足りてない!あっち!あっちのぞいて行こう!」
「どれだけありゃ足りるんだ……。」
悟空はひとり振り返ることもなく一軒の食料品店を目指して駆けていく。大量の荷物を抱えていたがそれを感じさせない足取りだ。三蔵がぼやきつつもその背中を追っていく。買い物の勘定は全て三蔵の持つカードだ。
これまた既に抱えた荷物に半ば埋没した様子の悟浄が呟いた。
「これってひょっとしなくても俺らヤバイよな?三蔵とはぐれた日にはこんな見知らぬ土地でほぼ無一文だぜ。」
「せいぜい機嫌を損ねないように努めなきゃですね。」
八戒がそう言うと、神妙な顔つきでこう返した。
「煙草の一本や二本で根に持つのはやめとくか……。」
「オイ、荷物持ち!」
そこでタイミング良くご主人様からお声が掛かったので、ハイハーイと返事だけは勢いよく歩き出す。
「これ以上どー持てっての。」
その言葉通り殆ど限界への挑戦状態になっていた悟浄の荷物から、煙草のカートンがするりと滑り出した。バランスを変えて落下を防ごうと試みるが、他に積まれたものが危なっかしく動く。
「拾いますよ。」
「ワリ。」
背後から掛けられた声に応えた悟浄の顔が強張った。
「危ない!」
何かを考えたわけではない。戦いの習性と言っても良い。自然に身体は緊張し、悟浄の視線を追って振り返る。自分に向かってくる小柄な影が視界に入る。その手には鈍色の輝き―刃物だ。身体ごと繰り出されたナイフの一撃を難なくかわし、殆ど惰性で襲撃者の右手を背中に回してひねり上げた。
踏み固められた地面にナイフの落ちる乾いた音が響いた。
一瞬の間のことだった。
いつの間にか、居合わせた人々のすべてが息を飲むように静まりかえっている。悟浄の買い物袋から落ちた果物や菓子、雑多なものが地面を転がっていた。
「イッタ……。」
八戒の手に捕らえられた襲撃者から上がった声は、あまりにも幼かった。ようやくティーンエイジに手が届こうかという少年。小柄な体躯もそのことを裏付けていた。一体、と問いかけた八戒の声は、しかし、騒ぎ出した周囲の声にかき消される。
「どうしたの!?」
「ナイフだ!血が出てる!」
「何処の子!?」
既に眼前の事実とは異なる話まで出ている。
悟浄は散乱してしまった荷物とちょっとした騒ぎに発展している辺りの光景に困惑して言葉を無くした。悔しいがこの場は、分かり易く世間一般的に地位や権威のある何処ぞの誰かに収めて頂くのがベストだと言う気がする。
三蔵と悟空が消えていった雑貨屋を振り返ると有難いことに二人はこちらへ向かっているところだった。
「何あったんだよコレ。」
「よくもまあこのちょっとの間に騒ぎが起こせるもんだな。」
俺じゃねーっつの、と悟浄は同じく困り果てている八戒を指差した。取り押さえられた少年、そして、平和な市場の光景にはそぐわないナイフの輝き。なるほどな、と三蔵は唸った。
短く息を吐いて呼吸を整える。
「この場は怪我人も無いし問題無い!後は俺が預かる!」
大声を張り上げたわけでは無かったが、毅然とした調子は人々を注目させるに足るものだった。そして、殊更に強調して肩に掛けた経文の具合を整えるような身振りをする。効果は絶大だった。
「まあ、こんなところにエラいお坊様が?」
「なんなの?」
「だってあの経文は」
「そう言えば聞いたことがある」
野次馬の興味はむしろ三蔵に移ったようだったが、三蔵は鬱陶しげに言い加えた。
「いいからとっとと散れ!」
「ヤクザみてえええええ」
極力抑えた声で言ったつもりだったがしっかり聞こえていたらしく、鋭い視線を浴びて悟空は肩をすくめた。しかし三蔵はそれ以上そちらには構わず、渋々ながら引き始めた野次馬の間を、八戒と少年の方へ向かう。悟浄と悟空の二人も、落としてしまった荷物を拾い集め始めた。
「で、物取りか?それとも知り合いか?」
剣呑に問う三蔵の声に、少年が顔を上げる。しかし彼が見たのは三蔵ではなく八戒だった。上体をひねるようにして―腕がかなり痛む筈だ―無理な姿勢でなんとかそうしている。それほどまでに、強い、確かな意図を持った目。
八戒は一瞬怪訝な表情を浮かべたが、やがて驚愕がそれに取って代わった。
思わず少年を拘束する力が緩んだ。
その隙に少年は身をよじって八戒の手から抜け出す。しかし、八戒は何故か追おうとしない。三蔵はそのことに気を取られて、動きが遅れた。悟浄と悟空も顔を上げるが、少し離れている。少年はまんまと逃げおおせるかに思えたそのとき―。
「おまえは…おまえは人様になんてことしてんだ!!」
男の怒声が響き渡り、続いて鈍い音がして少年が地面に倒れ込んだ。大柄な中年の男性が息を弾ませて立ちはだかっている。少年は動かない。
「何か言ったらどうなんだこの」
「ちょーっとタンマタンマ、やり過ぎだってやり過ぎ!」
咄嗟に悟浄はレフェリーのように二人の間に割り込んでいた。連れ合いに斬りかかった物騒なヤツを庇うとは妙な展開だという自覚はあるのだが、致し方ない。振り返ると、悟空が少年を抱き起こしている。
「気ィ失ってる……。」
男は息を荒げたまま立ち尽くしている。こちらも混乱しているのだろう。自然、二人の目線はもうひとりの当事者である八戒へ向かう。しかしその八戒もが、愕然とした表情でその場に凍りついている。
「おい……どうしたんだ?」
三蔵も声を掛けるが、三人の見守る中、遂に八戒は膝を折って地面に崩れた。
伏せた顔の色は傍目にも分かる程に白い。血の気が引いているのだ。
「八戒?」
悟空は少年を抱え動けない。もどかしげに呼ぶが、八戒にその声は届いてはいない。それどころか、周囲の全てから切り離されたかのような感覚に陥っていた。
あの目、あの少年の眼差し。
知っている。憶えている。憎悪でも、怒りでも無い。それは、罪を断じる目。
その瞳には、確かに憶えがあると思った。
「アイツは……そのぅー、本当はウチの子じゃねえんで。」
男、少年の父親はそう言って口篭もった。
三蔵たちはどうしてもお詫びを、という彼に押し切られる形で宿屋を営んでいるという彼の住まいにやって来ていた。少年はまだ気を失ったまま、別室で休んでいる。
空いている一室に通された四人は、成り行きから父親の話を聞く羽目になっていた。
「本当に、怪我は無いんで?大丈夫なんですか?」
大きな体を萎縮させて上目遣いに問う父親に、八戒は曖昧な笑みを返した。
「ええ、もう大丈夫です。ちょっと気分を悪くしただけですから。」
一見、その表情は既にいつもと変わらないように見える。
「アイツには絶対ワケを話させて詫びを入れさせます。本当に申し訳ありません。」
父親はもう何回目になるか分からないが、深く頭を下げた。
「アイツは、なんだか知らねーけど、元々住んでた村が妖怪か何かに襲われて、家族どころかアイツの近所のうちの人間はみんな殺されちまって。そりゃ、酷い様子だったって聞いてます。……もちろん、だからこんなことをして許されるってことじゃ無いんですが……。」
遠縁に当たるここの家で彼を引き取ることになったとき、彼は殆ど口を利かない子供だったと言う。言葉にはしなかったが問題になるような行動もあったのかも知れない。
最近は表情も明るくなって普通の子供らしくなってきたと思ったのに、と父親は言葉を切った。なぜ、という思いが沈黙から伝わってくる。
「……様子を、見てきた方がいいんじゃないか?」
三蔵が言った。
「あ、ハイ、でも……。」
「俺たちの方は問題ないし、きっちりケジメがつかないうちにいなくなったりしねえよ。あとでいいから、ついでに灰皿を持ってきて貰えると有難いんだが。」
父親は、分かりました、と応えてすぐに部屋を後にした。しかしその場にはまた新たな沈黙が生まれる。ややあって、八戒が観念したように溜息を吐いた。
「やっぱ、コレって僕の話待ちですか?」
「聞くに聞けねーし、困るだろうがこっちが!」
悟浄は、恐らくわざと―軽くそう言った。三蔵が後を引き取る。
「まあ、今のオヤジの話で大体分かるが。」
「え、まさか……?」
悟空が思い当たって、三人の顔を見回す。
「その、まさか、ですよ。」
「ええーっと、つまりそのー、アイツ、前、八戒の住んでた村に住んでたって事?」
苦心して言葉を選ぶ悟空に八戒ははっきりと言う。
「やさしいんですね、悟空。……あの子の家族を殺したのは、僕です。」
「間違いないのか?いまどき、やたらに珍しいエピソードでも無いだろ、ああいうの。」
悟浄の言う通り、妖怪たちの異変が顕著になってから、少年と同じような身の上の者は確かに少なくはない。だが、八戒は首を振った。
「憶えているんです……あの眼……堪らないなあ……。」
それまで、ただ少し困ったような表情を浮かべていただけだった八戒が、両の手で相貌を覆い隠す。シンプルな弱音は、それだけストレートに彼の心情を周囲に伝えた。
「なんなら、このまま消えるか?」
そう言ったのは三蔵だった。悟空は、三蔵が同じ口で少年の父親に言った台詞を一言一句違わず思い出せたが、ここでは何も言わなかった。
ややあって、八戒がまた首を振った。
「いいえ。これが、それでも生きていくことに決めた、僕に架せられたことなのだと思います。……少し、お時間を頂いても良いですか?」
灰皿を待っているのか、片手に煙草をもてあそびながら三蔵は言う。
「かまわんさ、こっちは。」
「ありがとうございます。僕、たぶん、事件の前にも彼を知っていたんです。学校みたいなところで先生の真似事をさせてもらってたんですが、そのときに……。」
八戒は何かを振り払うかのように立ち上がり、そのままの調子で歩調を緩めることなくドアの外へと消えた。
「どうすんだろ。」
その背中を見送って、悟空がポツリと漏らす。火の気のない煙草をくわえてのろのろと悟浄が答える。
「アイツと話す気なんだろ……。まっじめ……。」
「まあ、でも、それだから八戒ってゆーか……。」
「まあ、そうなんだけどよ……。」
〈3〉
バイタルサイン。生命の兆候。生きている、しるし。
そういう言葉を、彼、に教えて貰ったような気がする。けれど、それはもう随分と遠い昔のような気がしたし、夢の中の出来事のように思えた。或いは今起こっていることこそが夢なのか。
サイン。しるし。
今、命を刻むリズムは少年自身のもの、たったひとつしか感じられなかった。
あれからどのくらいが経ったのだろう。身体が、重い。
彼の上にはひとひとり分の重みがあり、そしてまた視界も閉ざされていた。その重みにはもう温もりは感じられない。冷たい……塊だ。だから問い掛けは、反射的に口をついたものだった。
「……かあさん?」
返る答えは、無い。
そのままそこに留まっていたい衝動を抑え込むのに相当の時間を費やして、少年は、自分を庇った母親―母親の死体の下から這い出した。
静かだった。
割れた窓、だらしなく揺れるカーテン、倒れた家具、植木鉢の欠片、土、食器や本…散らかって、きっともう誰も片付けることの無いであろう床の上、ありとあらゆるところに残る誰のものとも知れない血痕、それに、ついさっきまで一緒にいた家族の変わり果てた姿。
そんな凄惨さよりも、ただ、静けさだけが彼に驚きを与えた。
ここは、何処だ?自分の生まれ育った村はこんなところだったか?
彼は夢遊病者の足取りで、ふらふらと戸外へ歩み出た。立ち尽くす彼のすぐ背後で、風に吹かれたドアが大きな音を立てて閉じた。その、バタンと言う音は、今まで聴いたことの無い余韻を長く、長く響かせて、それからまた静寂が戻った。
音はあった。まったくの静謐ではない。
風がざわざわと木立を揺るがす。晴れた空に小鳥が囀っている。
干されたままの洗濯物がはためいている。
どこかの家の古ぼけた風見鶏は、ずっとキィキィ耳障りに軋んでいる。
開け放たれたままだったのだろうか、時折、バタンと窓か、或いは扉の閉じる音もしたが、それは決して人の手による響きでは無かった。
走り回る子供の声、それをたしなめる母親の声、広場で世間話に興じる年寄りの声、安いよと呼ばわる露天商の声、声、声。ひとつの声もない。足音も、家々の窓から漏れてくるちょっとした生活音も。
ひとの作る音のない様は、ただ、とても静かだった。
意識しないままに少し歩くと、割れたガラスの散らばる一角に、老人の死体がくずおれるようにうち捨てられていた。少年は彼をよく知っていた。その老人に家は無く、誰も聞きはしないのに、古ぼけた帽子を地面に置いて、拾ってきた木箱の上に立って、宙に向かって世の中の理不尽さを始終がなりたてていた。雨の日も、風の日も、少年の知る限りいつもそうしていた。大人たちは意味ありげに、彼はオカシイのだと言っていた。
その老人さえも、少年の母親と同じように、今は物言わぬ塊と化していた。
(あの、箱と、帽子は。)
どこへ行ってしまったのだろう、そう考えたとき不意に涙が溢れてきた。これ以上立っていることは出来ないと思った。
ひとりだった。誰も居なかった。
涙はとめどなく流れたが、声は少しも出なかった。
何もかもなくなってしまった。
少年はひとりだった。
すべて、彼のせいだ。
彼の身に何があったのか、少年に知る由はない。ただ分かるのは、自分をひとりにしたのが間違い無く彼だと言うことだ。忘れない。忘れられない。
彼の瞳の色だけが、記憶に焼き付いた。
夢。繰り返し見る夢。
あの日のことは、いつまで自分につきまとうのだろう。
ただ、終わりにしたかった。
ゆっくりと目を開けると、そこはよく馴染んだ自分の部屋だったが、ベッドサイドには見知らぬ男の影があった。椅子に掛けているようだが、背が高いのが見て取れた。髪の色は黒い。そして……。
「気が付きましたか。」
男の目は、深い緑の色だった。片眼鏡に隠れた右の目は微かにメタリックな輝きを帯びて、少年の知る彼の目ではなかったが、間違いなく彼だった。市場の人混みで見掛けたときにも、すぐに彼だと分かった。
何故か今は激しい感情は沸いてこず、ただ強い疲労感を覚えて、少年は彼―八戒に背を向けるように寝返りを打った。
「……アンタか。って言っても覚えてない?」
「いえ、覚えていますよ。……意外でしょうけど。」
間を置かず返ってきた八戒の答えは、その言葉の通り、少年にはやや意外だった。
「そう……ああいうときって、周りの事なんて見えて無さそうだし。アンタ、普通じゃ無かったし。意外だな。」
「自分でも、意外ですよ。」
あのときの記憶は確かに明晰だった。ただ、感情と言うものが欠落していた。
誰が、何処で、どのように、死んでいったか分かる。知っている。だが、それが自らの手によるのだと言う実感が欠け落ちているのだ。まるで夢か、映画のワンシーンのような薄っぺらな映像として存在している。
自分が、何を思っていたのかも、今となってはもう分からない。
自分を駆り立てた動機なら分かる。激しい感情ならば忘れようもない。しかし記憶に残る場面とその感情が結びつかない。それはリアリティーの欠如とも言えた。
けれど、今、確かにその出来事を証明する存在が目の前にある。
八戒は無言の背中を見つめて、やがて、重い口を開いた。
「そういうことが、聞きたいですか。他に、何が聞きたいですか。」
八戒の問いに、少年はただ分からない、とだけ言った。
「あんときは、アンタを殺してやろうと思った。けど、今はそうは思わない。」
少年は目を逸らし天井を睨むと、疲れ果てた様子で眼を閉じる。八戒はただ辛抱強く次の言葉を待った。
「未だに、夢に見るんだ。気が付いたらひとりだったこと、家族の死体……薄情だと思うだろうけど、ただ忘れたいだけなんだ。もう、こんなにツライのは嫌なんだ……。」
八戒はその搾り出すような苦悩の言葉に答える術を持たなかった。憎しみでも、悲しみでもない、ただただ深い疲労感。まだ年若い少年にそんなものを植え付けてしまったのは、自分なのだ。
「だからさ、最初にアンタ見たときはカッとなったけど、結局アンタ殺したってなんにもなんないだろ……。ホント、どうしたらいいんだよ……。」
少年は、こう続けた。
「いっそ、あのときに一緒に殺してくれればよかったんだ。」
八戒は息を呑んだ。安易にそんなことを言うな、という言葉を抑えたのだ。自分がそれを言うのか?
確かに知っている。一度は終わった筈の世界がまた開けていくこと、新たな出会い、何よりも、ひとは自分が思うよりもずっとつよく出来ているということ。生きてさえいれば、何かは見つかる。
だが、少年をこんなふうにしたのは、他の誰でもない、自分なのだ。
その自分に何が言える?
八戒は決意しいて顔を上げた。
「僕は、あなたに手紙を書くことにします。」
「手紙?」
少年はわずかながら興味を惹かれ、閉じたままだった目を開いた。八戒は畳み掛けるように続ける。
「どんなものを見たとか、どういうものを食べたとか、こういうバカな話をしたとか、毎日おもしろおかしく生きてるって事を、手紙に書きますよ。」
「アンタ何を」
眉をよせる少年に構わず、八戒は語調を強める。
「悔しいでしょう!あなたをこんな目に遭わせた男はのうのうと図太く生き続けてるんです!それをしつこくずっと知らせます!だから、あなたも生きてください。死んでた方がよかったなんで思わないでください……!」
そう言い切って八戒がまた俯く瞬間、少年はその顔に光る筋を認め、また目を閉ざした。自分に見られたくは無いだろうと思ったからだ。そして、ひとことだけ、返した。
「ヘンなヤツ……。」
〈4〉
「おっ、何また例のラヴレター?よく続いてんなー。」
取っ組み合いの手を止めて悟浄がそう言った。八戒の持つ白い封筒に気付いたのだ。
「一度決めたことはやりとおす主義なんで。」
「アイツも、また性質の悪いのに因縁つけたもんだよなあ。」
それって僕のことですよね、と八戒が心外そうな表情を見せる。
「で。」
三蔵がガツンと、一際高く足音を響かせた。
「俺はもう出かけるつもりだが、てめえらはいつまでそこでお話してる気だ?」
「あーハイハイハイ、俺行く俺行く!」
「イヤだなあ、こんなところで取り残されたら困りますよ。……経済的に。」
駆け出した悟空に続き、八戒も足早に出口へと向かう。
「え?ちょっと待って、コレ、なんか最後になるとものっすごい立場悪い感じすんだけど?」
三蔵が面白そうにひらひらと手を振ってみせる。
「よく分かったな。じゃあ、今晩メシ抜きとかでどうだ?」
「タンマタンマタンマ、じゃあそれはオイ、ジープに辿り着いた順ってことでさあ!」
勢いをつけて走り出す悟浄に、卑怯!と抗議しつつ悟空ものせられて走り出す。
「なんだあの無駄なやる気……。」
「じゃあ僕もちょっと走りますかね。……財布は三蔵ですけどアシは僕が握ってますから!」
は?と疑問符を返す三蔵に、お先に、と手を振って走り出す。
「ちょっ……おまえら本気か?クッソ……!」
大の男四人がかけっこしている様子を客観的に考え直して、八戒は苦笑する。そのとき、手紙を持つ手が緩んだのか危うく風に持っていかれそうになる。
「おっとととととと。」
「どうした?先に行くぞ!」
手紙を掴みなおそうとスピードが緩んだ間に三蔵が追い越していく。
風に飛ばされてしまうような、ただの手紙。こんなものを書いたところで何がどうなると言うのだろう。
少年は相変わらず悪夢を見ているだろう。自分はずっと十字架を背負い続けていくのだろう。この手紙ひとつで、何かが劇的に変わることも、終わることも無い。
それでも、水面に投じた小石のように、未来に何かの波紋を作るかもしれない。
少年にも、自分のように笑える日が来るかもしれない。
少年の願うように過去の苦しみや悲しみが終わることは決して無いだろう。生き続ける限り、ずっとつきまとい続ける。それでも、それだけでは無いのだと、生きていれば他に始まることもあるのだと、いつか気付いてくれればいい。
しっかりと握りなおした白い封筒を見つめ、八戒はそう願うのだった。
2008年にアンソロジー「ALL YOU NEED LOVE」に寄稿した小説でした。もう売ってないので載せてもよかろうかと思いまして。アンソロジーは10KB制限があってかなり削ったのでこちらは削る前バージョンです。
実はこの前にアップした「the day after」を先に書きかけてたんだけど、なんか終わりが暗いなあ……と思って、同じような意味合いの話で別方向に持って行ってみようと書き直したのがコレだったり。で、結局アンソロジーにはこっちを送ったのでした。
本来なら二つ並べて人目にさらすモノではないのだけれど、趣味の同人なんだからいいじゃなーい?と言うワケで。ちょっと長めの話でしたが。お付き合いいただきましてありがとうございます。
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